妄想オムライス
床下は骨伝導 ワ((゚゚дд゚゚ ))ワワ !!!!!



宇宙科学博物館コスモアイル羽咋

コスモアイル羽咋に来た。 おもしろいかな?

本物に遭える宇宙科学博物館なのだ。能登半島にこんなすごい施設があるんです。←キャッチコピー

NASA特別協力施設だぞ。

クリックで展示物情報

うおおでかい。ホンモノ?




うわ、ホンモノなんだ!

クリックで拡大

ロケットを背景に記念撮影ができます。

ダンナが嬉しそうな顔して写ってたよ。

オブジェ星の詩。
  

のぼってはいけません。

すべり台ではありません。

売店がある。行ってみよう。



あ〜あ〜


宇宙人だらけ。


氷にもさりげなく宇宙人のシールが。

ダンナの楽しそうな笑顔が思いっきり写り込んでいた ↑ ので塗り潰したよ。

わはははは!こんな商品券だったらいっぱいお買いものしちゃいそう。

ダンナの楽しそうな笑顔が思いっきり写り込んでいた ↑ のでトリミングしたよ。

店内には宇宙みやげに宇宙人Tシャツが各種取り揃えてあり、喫茶コーナーでお茶もできる。

Tシャツも買えばよかったな〜。

なんですと、非常事態宣言ですと?


じゃ館内に入ってみなきゃ!


入ってみた。

わー綺麗!

おおっ、図書館もある。本を読んでいるのは皆人間だった。

ここに住んでたら毎日通いたくなりそう。

では、これより羽咋情報コーナーの掲示物特集を始めます。


うむむ


食べ物屋さんのメニューがどこもかしこも宇宙人仕様になっちょる。

  ↑ はくい だから891円 だって。

うふふ〜
                                ベントウこわ〜。

こ、これは、もはや、羽咋に宇宙人が住んでいるのは間違いない。

いや、

こんな人間向けみたいなのはブラフで、


羽咋の人が実はみんな宇宙人だったらどーしよー。

非常事態って宣言しちゃってるし。

キャー!

あっ、スタンプスタンプ。


スタンプどーん!
なんでカラオケ?


と、そこへダンナが 「ねえ見て見て」 と、

なんだよなんだよ男子トイレなんか見たくないよ別に。

ん?

なにこれー!

ほんじゃ、

宇宙人を探しにトイレにレッツゴー!


男子トイレの宇宙人。





女子トイレの宇宙人。


女子の和式バージョンは無かったのだ。

トイレから出て館内をよく見渡せば、

宇宙人の赤ちゃん。


ジュースを買う宇宙人。                宇宙人は携帯を持っていないようだ。


なんと、オフィスでは宇宙人が働いているらしい。


公共マナーを弁えている宇宙人。
ゴミ箱です。
皆さんここまでは気が付かないのよ、と売店の宇宙人のお姉さんが
教えてくれた。

お手洗いのシールは売店で買うことができる。

地球ライフをエンジョイする宇宙人。


そっかー宇宙人はカラオケが好きなんだな。

そうそう、

この方が羽咋を宇宙人の街にして、羽咋の米をローマ法王に食べさせブランド化したらしい。

書籍の中央に飾ってある宇宙人の肖像画が、うわさのスーパー公務員 高野誠鮮氏 のようだ。

過疎高齢化により18年間で人口が半分に落ちこんだ“限界集落”の石川県羽咋市の神子原地区を、年間予算60万円で、わずか4年間で立ち直らせた“スーパー公務員”・羽咋市役所職員の高野誠鮮氏。神子原地区の米をローマ法王に献上することでブランド化に成功させる。農家が株主となる直売所を作って、農民に月30万円を超える現金収入をもたらす。空き農家を若者に貸すことでIターンを増やす。アメリカの人工衛星を利用して米の品質を見抜く。『奇跡のりんご』のりんご農家・木村秋則氏と手をむすんで、JAを巻きこんでの自然栽培の農産物つくりを実践し、全国のモデルケースとなるなど、その活躍ぶりは際立っている。本書では同氏が手がけたさまざまな「村おこし」プロジェクトを紹介。これを読むと、仕事のアイディア力が増す、商売繁盛のヒントになる、そしてTPPにも勝つ方法を学ぶこともできる!

CIAの戦略に基づいてメディアを駆使し、ローマ法王にアラン・デュカス、木村秋則にエルメスの書道家、そしてNASAの宇宙飛行士や総理大臣も味方につけて限界集落から脱却させた市役所職員。

 目次

第1章 「一・五次産業」で農業革命!(「限界集落」の悲しい現状
     「一・五次産業」への挑戦! ほか)
第2章 「限界集落」に若者を呼ぶ(「空き農地・空き農家情報バンク制度」
     “抜魂”で仏壇の不安を解消 ほか)
第3章 「神子原米」のブランド化戦略(売りたい商品の長所を徹底調査
     ブランド品を生む「ロンギング」作戦 ほか)
第4章 UFOで町おこし(「町おこし大会」では、町はおこせない!
     郷土愛を深めた『羽咋ギネスブック』 ほか)
第5章 「腐らない米」。自然栽培でTPPに勝つ!(JAと組んで、TPPに挑戦!
     “奇跡のリンゴ”木村秋則さんを口説く  ほか 

   amazon ローマ法王に米を食べさせた男  より


あ〜おもしろかった!
なんてことをして盛り上がっていたら博物館の閉館時間が過ぎてしまい、入りそびれたのであった。
しかし、トイレと売店だけでもハイテンションになれるコスモアイル羽咋なのであった。



宇宙科学博物館コスモアイル羽咋


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羽咋の郵便局でUFOスタンプ

羽咋市街に入るとUFOに乗った宇宙人が歓迎してくれる。


日本全国広しと言えどもUFOスタンプを捺してくれるのはここ羽咋郵便局だけ。

葉書か切手を一枚買うと、葉書か好きな紙に横尾忠則デザインのスタンプを一回捺してくれる。
 

ワオ! 「横尾少年」に載っているのとおんなじ!
平成6年にこの画集冊子を買って以来、いつか捺して貰おうと思っていた憧れのUFOスタンプがぁ!
19年越しの夢が、ささやかな夢ではありますが、叶ったんだ。大人ってすごいな〜。


横尾少年- 横尾忠則昭和少年時代 大満足特大号
amazonで昭和少年時代
今でもたまに見る。


さて、UFO博物館に宇宙人を見に行ってみよー!



羽咋郵便局

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ついでに日本全国広しといえども文楽スタンプを捺してくれるのは大阪高津郵便局だけなのだ。

文楽友の会に入って、貰った郵便物の初めの2回だけがタンプ付きだった。
以降はスタンプ無しなのだ〜寂しい〜。






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羽咋 折口信夫父子の墓

金沢駅西口もしくは羽咋駅から高浜・富来・門前行きのバスに乗ると一の宮に来れるみたい。

クリックで帰り(金沢駅西口・羽咋駅行き)のバス時刻表

一の宮停留所の少し先に折口博士父子の墓の看板があった。これを看板として、


矢印に従い車で行けるところまで行ってみよう。


右の建物に看板。その先の突き当りを道なりに左方向へ。


左方向を見たところ。


最初に遭遇する墓地の階段の下に、


看板

看板が曲がっているけど気にしないで墓地の前を通り過ぎ先へ進む。

左側にお地蔵さん。だったと思う。


分かれ道に、


看板

気多大社にあった折口父子の歌碑と同じ歌が書かれている。

直進すると平地に墓地が広がり、右角のブロック塀に、


看板

看板はこれが最後。

行き止まりが広場になっており、ここまで車で入ることができた。


クリックで拡大


小高い砂丘の上に父子の墓はある。



はじめまして折口信夫さん、春洋さん。

藤井春洋は硫黄島で戦死。戦地に赴いたのと同じ頃に折口の養子になっている。
春洋の死を悲しんだ折口は昭和二十四年に藤井家の墓地に父子の墓石を建てた。


あたしの眠い目をちょっとこじ開けてくれた方のうちのひとり。知識と世界観が足りないので、
折口ワールドを妄想遊泳するほどの自由には遠く及ばないけれど、バカなりに遊んで戴いている。

 もっとも苦しき たたかひに 最くるしみ 死にたる むかしの陸軍中尉 折口春洋 
                                      ならびにその 父 信夫の墓


忘れっぽくて方向音痴なもんで。番号は看板のあった位置。

予想に反して墓地から海は見えず、波の音も届かないのでありました。



折口信夫父子の墓

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気多大社

羽咋 気多大社にやってきた。 気多大社は海を向いて建っている。


「気多神社縁起」による創社伝説は、祭神の大己貴命(おおなむちのみこと)が孝元天皇のとき300神余を率いて越中の北島の化鳥と邑知潟(おうちがた)のの大蛇を退治して海路を開いたと記している。ほかに、「気多社島廻縁起」では、異国の王子の鬼神退治、「気多社祭儀録」では崇神天皇の遷座と諸説入り乱れる創祀伝来を示すが、天平二十年(748)に越中守大伴家持が「気太神宮」に参詣したというのが記録『万葉集』の歌として出てくる。その後喜式内社となり、古代から神格が高かった明神大社となり、中世には能登の一ノ宮とみえ、守護の畠山氏の保護をうけ、近世には前田家の手厚い保護をうけて、明治を迎えたという来歴を示す。


クリックで拡大





近世期に建てられた神門は重要文化財。



拝殿。承応二〜三年(1653〜54)に建立。重要文化財。


気多大社の授与所は「しあわせ結び所」といいます。


縁結びの御利益があるから。


キレイになるお守りがあったみたい。買えばよかった!←いろんな意味で手遅れ

拝殿の奥に本殿があり、右手に摂社白山神社本殿、左手に摂社若宮神社本殿、の三つの本殿が並ぶ。

いずれも重要文化財。 左の鳥居が若宮神社で、

そしてこれは、右手の白山神社を横から見上げたところになるだろうか。


白山神社かな?


白山神社の隣にあるこの小さな社はなんだろう?


入らずの森は国天然記念物に指定されている。

ここに立っているだけで心と体が清涼に洗われるような気持になる。無意識に宇宙と交信してたり
幽体離脱してたりしそう。口からエクトプラズム出しちゃったり。

3万屬鯆兇┐訃鑪亶葉樹の自然森なのだ。

どんな動物達が暮らしているのだろう。

小川に架かる橋のむこうに、


太玉神社。


「能登こうすけ」に「越後外山雅咲人」の千社札がかっちょええ。どっちも強そう。

あたしが千社札を貼るとしたら「下総おむらいす」だな。頭弱そう。

石垣の上に鎮座する狛犬さん。


誰かがティアラみたいに小石を乗せてていった。

なんだか似合っているよん。



木の根と一体化した石垣がかっちょええ。



あっ、菅原神社だ。道真公かな?


小さな社の両側に絵馬がびっしりと奉納されており、賑やか。


絵馬は合格祈願のものばかり。


やっぱり天神さんだ。


クリックで神木の社の看板拡大


大黒さんも居られます。




大型バス用駐車場の横の、松と垣がめぐらされているエリアの中に、


折口信夫親子の歌碑がある。

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ふたりの歌碑。

右が迢空(ちょうくう・折口信夫)。 気多のむら 若葉くろずむ 時に来て 遠海原の 音をききおり  
左が春洋。 春畠に 菜の葉荒びし ほど過ぎて おもかげに師を さびしまむとす

参道から一の鳥居を臨む。鳥居の向こうは砂浜が広がり、

そのどこかに折口親子の眠る墓地がある。


参考: 石川県の歴史散歩 山川出版社


気多大社

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小木港と蟹工船

九十九湾から、近くの小木港に立ち寄った。

小林多喜二の「蟹工船」を読んだのは中3の夏休み。世界で初めて蟹工船を操業したのが和嶋貞二という人だと知ったのは大人になってから。和嶋貞二は、ここ小木の出身だという。能登の人なのだ。

港の縁石から乗り出して海を覗くと、かわはぎの子供がたくさん漂っていた。

葉っぱみたい。


蟹工船以前、オホーツクの海で獲れたタラバガニを、今の北方領土の島々の缶詰工場でカニ缶に仕立て上げていたが、初期の缶詰製造の技術は殆どが手作業によるもので効率が悪く、また長時間熱処理をするので身が煮えてしまったり、仕上げに失敗すると空気が入って酸化してしてしまうことが多かったそうだ。蟹の場合はサケ・マスなどの魚よりも肉の処理が難しく、缶詰にしたものの、なかなか長期保存に堪え得ないというシロモノも中にはあったらしい。

日本で初めて缶詰が試作されたのは明治六年(1873)で、カニ缶詰が初めて試作されたのが明治十四年(1881)。カニ缶詰製造工場が根室地方を中心とするオホーツク海沿岸に設けられ企業として定着し始めたのは明治三十八年(1905)日露戦争直後の頃から。

カニ缶製造技術のイノベーションとなったのは、始めは蟹肉を真水で洗っていたのを、海水で洗えば持ちがよくなると発見したことだという。獲った蟹の殻を直ちに外して海水で洗い、それを紙で覆えば身が缶に直に触れることなく酸化を防げることを発見してから、カニ缶詰の品質は飛躍的に向上したのだそうだ。

江戸から明治にかけての昔、北方領土の島々には原住民とロシア人と日本人が混在し、明治後期には日本人の経営する缶詰製造工場でロシア人が働くなど、双方が漁場の権利を主張し合い緊張しつつも北洋の恵みを分かち合っていたように思われる。しかし日露戦争(1904〜05)後、日本はシベリア沿岸における漁業権を得たが、漁業取締をロシア国内法によるとしたため、その後の数限りない紛争を招くことになったようだ。仮に日本に取締権があったとしても日露の漁業権問題は避けられなかったと思うけれど。

船舶に缶詰製造機を積んで行って、獲ったその場の海の上で缶詰に加工するという方式を「母船式」というらしい。母船式漁業は特に足の速い蟹肉の鮮度を保ったまま流通させるのに必要な技術であったし、一方で戦争が始まると戦地に食料を送るため缶詰製造は盛んに行われるようになる。

母船式蟹漁を始めに試みたのは、富山県水産講習所の練習船「呉羽丸」で、カニ缶詰を1261函(函=二分の一ポンド缶八ダース入り)を生産した。蟹肉の洗浄は淡水でなければならないという常識をくつがえしたのはこのときで、新発見!といわれている。大正九年(1920)のこと。

この成功は民間漁業家の注目を浴びていた。翌大正十年(1921)、商業用としては世界初となる和嶋貞二の蟹工船が函館港から北洋に向けて出港することになる。


 和嶋貞二ものがたり

明治四年(1871)能登・内浦町小木の弱小北前船主であった和嶋孫作の長男として生まれた。父親の孫作は商才に長けた海の男であったのだろう、明治初期には北前船に見切りをつけ、北海道、根室の漁場経営に転身、昆布漁を中心に財産を築いた。一ぱい船時代、函館・五稜郭の堀にできる氷(タダ!)を北陸・東海方面に回送販売し、梅干しのない北海道に販路を開くため、故郷小木に梅林を造成した孫作の先見性は漁業でも生かされ、明治中期には歯舞漁協組合の初代会長に就任するまでになった。

貞二はこの父に呼ばれ明治十二年(1879)、十六歳で根室に移り住み、同三十八年(1905)、三十四歳で独立。ときは日本中が活気づく日露戦争直後、サハリン、北千島へと進出して行ったが、漁場開拓で財をなす時代は過ぎ去っていたため漁業は振るわず。

翌明治三十九年(1906)、貞二は和嶋汽船部を創設、数年後には汽船七隻を保有し、北千島にカニの缶詰工場を経営するかたわら、北海道で三つの鉱山を持つ事業家になった。しかし続く戦後恐慌、シベリア出兵、米騒動と状況は暗転する。

事業に打撃を受けた貞二は再興の道を船上でのカニ缶詰製造にかける。このころすでに七十歳を過ぎていた父の孫作は、手堅く守って来た漁場を整理し、貞二の再起に資金を援助、半生を送った根室から引き揚げている。

大正十年(1921)、函館を事業の根拠地としていた貞二は、故郷・小木の芳野広太郎、石岡常次郎らの協力を得て七尾の北洋商船から機帆船「喜佐丸」(389t) 「喜久丸」(300t)をチャータ。二隻の船は函館へ回航中、小木・九十九湾にも立ち寄って故郷の人たちをまず驚かせた。

世界初の蟹工船は函館港から間宮海峡、沿海州セントウラジミル湾方面へ船出した。船団長は弟の荻野勝利、機関長は妹婿の尾崎貞一郎、乗組員は貞二子飼いのつわ者ぞろいで、いわば和嶋家の全精力を傾注した事業であった。この年、2759函の缶詰を製造。翌十一年からは、もと加賀藩家老職の家で金沢の財閥だった横山俊二郎との共同経営に切り替えた。

事業着手の三年目の大正十ニ年(1923)、この年の出漁には1080tの大型汽船「俊和丸」を新たに加え、事業拡大を目指したが、その矢先の四月二日、まず「喜久丸」がワレンチン湾で、次いで五月十一日に「俊和丸」「第一俊丸」がアレクサンドルスキー沖でソ連軍艦に密漁海賊船の疑いで威嚇射撃を受け、拿捕、連行される事件が起きた。ソ連側の裁判の結果、「喜久丸」は無罪、「俊和丸」など二隻は有罪となった。貞二は上告して無罪を主張するより、一刻も早く荻野船団長以下乗組員のもらい下げと船体の返還に重きを置いてかけずり回った。

貞二の奔走で乗組員の生命と船体は守られた。だが、三隻全船拿捕されたことで漁期を失った痛手は大きかった。関東大震災後の経済混乱がこれに追い打ちをかけ、翌十三年には金融の道がつかず、貞二は出漁を断念せざるを得なかった。

失意の蟹工船創始者の巧に報いるためか、業界はカニ缶詰の輸出組合をつくり貞二に理事長のポストを用意した。横浜で開かれた設立総会後の祝宴の席で貞二はにわかに倒れ、そのまま帰らぬ人となった。出漁断念の翌大正十四年(1925)五十三歳であった。

生前、貞二の友人たちは蟹工船の技法を専売特許に申請するように勧めたというが、これに対し貞二は「これは国家的な事業で個人が私すべき権利ではない」と答えている。プロレタリア作家小林多喜二の小説「蟹工船」に託された過酷な労働が貞二の船でも行われたとの資料、証言はまったくない。

  (されど海へ 北國新聞社 p211〜213より  下画像:同書口絵より)



貞二は母親似の整った顔立ちで身長180cmの大男だったとも書かれている。

遠洋漁業では、一旦海へ出ると漁師たちは船という限られた空間で何日間も寝食を共にせねばならず、漁が始まれば時間を度外視して、明け方から夜中までかかろうが、獲れるときに獲れるだけ撮り続けなければ割に合わない。機械化されたトロール船の登場を見るまでは、漁は一族郎党で、同士愛をもって家内工業的にやるのが、トラブルが少なくやりよかったという。貞二の蟹工船の初出航が和嶋家総動員で行われたのには、資金の問題と同時にそういった漁業の性質的側面もあったかもしれない。

蟹工船の特許申請をするのなら母船式蟹漁に先鞭を付けた富山水産講習所であるべきで、もし貞二が友人の助言を聞き入れ、富山水産講習所を無視して特許申請するとズルイことなってしまい、それは貞二の気に染まなかったのではないだろうか。それとも特許申請は民間にのみ許されるものなのだろうか。貞二は特許申請をしない理由に「蟹工船は国家事業にこそ相応しいから私物化するべきではない」と言っているが、後にも先にも農省が母船式蟹漁事業に乗りだした形跡はない。

貞二の「喜久丸」「喜佐丸」はこの港に雄姿を浮かべ、つかの間小木の人々の目を奪ったことだろう。

貞二は横浜で客死し、

北洋漁業は、戦前からのビッグスリー、日魯、日水、大洋の独占事業となってゆく。

厳しい北洋の荒海に男の夢とロマンを求めた北陸の漁師たち。
漁師は生まれながらにして漁師なのかもしれない。


 参考

されど海へ 北国新聞社編
北洋漁業の盛衰 大いなる回帰 板橋守那著
北洋フロンティア 藤崎康夫著
北海道歴史人物事典 北海道新聞社編
蟹工船から見た日本近代史 井本三夫著

こんなに読んだのに引用が少なく、うろ覚えで書いている。
能登繋がりで蟹工船の和嶋貞二さんを少し追ってみたけど、小木といえばイカなのだ。イカを引き寄せるために煌々と明かりを灯したイカ釣船の居並ぶ壮観な光景を、夜の小木港で見たことがある。



小木港 

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