妄想オムライス
床下は骨伝導 ワ((゚゚дд゚゚ ))ワワ !!!!!



松香さん

嶋さんが去ったあと、豊竹松香太夫さんは唯一わたくしの癒しの泉でいらした。2月の淡路町の口。その日も語り出すと、松香さんの心地よい倍音は耳に溶けて胸へ落ち、体中に沁み渡った。ああ気持ちいい。そうして淡路町の人々や営みは、おっとりと江戸時代の情趣を纏っていくのであった。松香さんは3月いっぱいで引退された。聞いてない。やだそんなの聞いてない。

 

 

 

 


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紋壽さん

去る2月16日に桐竹紋壽さんが亡くなられた。毎月の配役表にお名前を探し、来月こそは見られる、と喜んでは代役のお知らせに落胆する月が続いていた。やっと少しばかり紋壽さんの人形の魅力がわかりかけたのに。いつも眼光鋭く強面で客席ぐるりと睨め廻しながら遣う人形の、そのしとやかさ、或いは可愛らしいことと言ったら!政岡のぴんと張った空気、いじらしいお三輪、懐の深い釣船三婦、千代、万野、深雪、役名がわからないけど男のお役も沢山見た。おしゅん、釣り女のしこめちゃんも見た。ニワカの文楽初心者がやっと少しわかってきたところだったのに。古風でモダンで、不思議と物理的な重みを感じさせる紋壽さんの人形。もうお別れだなんて。悲しいよ。

 

 

 

 

 

 


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勘十郎さんの新刊書:一日に一字学べば・・・

 

いやーおもしろかった! 

夜中にこの本を持って家出して一気読みした。24時間開いてるファミレスで。

 

 

何回声出して笑ったかな。住吉さんで怒られた理由と、お孫さんに言った言葉が

「でかした!」だったことや、カブと十次郎?の写真や、それから、三人遣いで

フィギュアスケートやりたいとか。あと、簑助さんのお風呂の話も!フフフ。

深夜のファミレスでひとり、結構な爆笑を連発してしまったのであったよ。

 

写真がいっぱい!大放出!

 

しかし若いときにこの本に出合っていたらきっと啓蒙されまくったな。

残念ながら今はもう年なので手遅れだけど、でも勉強になる。

学びや仕事に対する姿勢や心構えが学べる。

 

で、読後の流れとしてすべからくDVDが見たくなったので家出は思い留まり、

帰って速攻で見ましたよ、『夏祭浪花鑑』の泥場を。

いやー、もう、キレッキレだもん、足!

 

速くって地球寸止め。

 

すごいなあ。

 

足かっけーなあ。

 

そういや左遣いをかっこいいと思った始めが勘十郎さんだったんだよ。

文楽見始めの頃には既に勘十郎さんは左と足を従えてスター街道爆進中でしたが。

見始めの当時、図書館に古い文楽入門のVHSがあったので借りて見たら、

青年の簑太郎の勘十郎さんが出ていらして、若くてハンサムでしゅっとした簑助さんの

お光だったかお園だったかなあ、お裁縫をするんですよ。

人形が針と糸を持って(持った体で)上手に縫い物をするのにも驚いたが、

縫い終わりにくるくるっと玉留を作り、口で糸を切る瞬間、

人形のかしらの動きを見つめる左遣いの簑太郎の勘十郎さんの大きな眼が、

キラーン光

と鋭く光ったと同時に布を持つ人形の左手をこう、きゅっと。

お人形が糸を噛み切るタイミングを計るのに一瞬集中力を増しているのが、もう、

 

かっこよくてー!

 

簑助さんのお光かお園が糸を切る瞬間が

人形遣いかっけーと気付いてしまった瞬間であったとよ。

黒衣の中で人形遣いはああやって集中して仕事してるんだ、って。

ほんで間もなくビデオの簑太郎さんが劇場の勘十郎さんと同一人物と知ったとよ。

釣女のしこめちゃんを遣ってらしたよ。

簑助さんは人間国宝になられていて神技炸裂されていたよ。

 

 

カバーのイラストと題字は勘十郎さんの筆によるもの。すげー。

このご本と「夏祭」DVDは是非ともセットで揃えるべし。

 

 

DVDの表紙の右側にいる主人公・団七の、丸胴という裸の体の部分を布と綿で作りあげ、

それに日本絵の具で刺青の絵を描かれたというのだから!ひゃー!

逆巻く渦と砕ける波濤はまるで若冲か北斎か。

カバーのイラストすげー言ってる場合じゃなかったか。

ほんで当の団七の足もキレッキレに遣われて。ひゃああー!

 

そして何が凄いって、

今勘十郎さんは当代きってのテクニシャンですから。

それもお父上とも師匠とも違う唯一無二の超絶技巧派ですから。

よいお芝居をするのに技巧はいくらでもあるに越したことはないのだなぁ、

といつもつくづく勘十郎さんの(が遣う人形の)お芝居を見ながら思うよ。

 

勘十郎さんはテクニシャンで画伯で親孝行なのであった。

 

 

NHKカメラ寄り過ぎ。

ちょっとだけど終盤ぶちぶちと編集もされているし。

仕方無いのだろうけど。

サランラップは全然わかりませんでしたー!(アタリマエ)

 

おそらく本公演の泥場の足もなさっていると思いました。

 

 

伝統芸能、それはすばらしい生き方。

 

 

人形遣いかっけー! 

 

 

 

 

 桐竹勘十郎著:一日に一字学べば・・・・・

  https://www.amazon.co.jp/dp/490384112X

 

 

 

 

 

 

 


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文雀さん

とうとう文雀さんが逝去された。

あの可愛らしい娘の恥じらいも、婦人の高貴な貫目も、もう見られない。

 

揺れて、止まって、揺らして、留めて。遠くを見て、近くを見て。

緩急自在に軌道を描く人形のかしら。

 

ひょうひょうと舞台に現れ、ちょちょいのちょいと楽に技巧を使われ、

お弟子さんにお尻を押されてまた、なんでもないようにはけて行かれる。

 

なんでもなかったように。

 

色濃く古風を留めた人形の動き。その妙を味わう喜びを教えてくれた。

もう見られないなんて。

 

昨年大阪での関寺小町。

文楽初心者のあたしなんかが到底及ばない、芸のその先に、文雀さんはいらした。

枯れて、不自由で、達観して、同時に諦めきれない未練もあって。

文雀さんの関寺小町だった。

でもきっと、基本に忠実に人形を操作されているのだろうな、と思った。

関寺小町っていうのはこうするのですよ、と。

いや、そんなことさえ考えておられなかったかもしれない。

関寺小町の人形は、文雀さんの手の中で勝手に動いていたのだ。

 

 

あたしの文雀師匠!

 

いついつまでも

 

 

 

  日本の真髄「文楽」

 http://www.akiosatoko.com/archives/?cat=13

 

 

 

 

 

 

 


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南都十三鐘 

 義太夫節浄瑠璃未翻刻作品集成17 鳥越文蔵監修/義太夫節正本刊行会編 玉川大学出版部

 

 

底本 松竹大谷図書館

体裁 半紙本一冊

題簽 南都十三鐘(原題簽)豊竹上野少掾直傳・正本屋九左衛門版

内題 南都十三鐘

作者 並木宗助・安田蛙文

初演 享保十三年(1728)五月十五日 大坂 豊竹座

番付 無

絵尽 有 東京大学蔵

 

 

 

 

主要登場人物

 

聖武法皇

長屋皇子

左大臣橘諸兄

橘諸兄の執権物部勘解由左衛門秀長

藤原広嗣

広嗣弟綱手藤太広宗

按察(あぜち)兵部

秦民部太郎国資(奴江戸兵衛)

佐久間隼人喜澄

国資妹・佐久間の妻 辻(三笠)

玉鶴屋義兵衛

玉鶴屋権蔵

物部屯之助成村

橘諸兄の子万千代

植安丹治

山形但馬

勘解由の妻 色香

国資の女房おさの

国資の老母

国資の子(妹辻の子)亀松

藤原広嗣の執権猪熊平内

二見屋手代伝八

二見屋主人弥次兵衛

橘諸兄御台所

佐久間の子竹松

 

 (人形役割妄想中〜)

 

 

 

梗慨

 

[第一]

 

 興福寺御幸

 

聖武法皇の御代。法皇興福寺御幸の折、長屋皇子に従う藤原広嗣の弟、綱手藤太広宗が駆けつけ、兄広嗣が院宣をもって命じられた、播州明石に建立する人丸廟の怪異を報告する。藤太広宗は「長屋皇子が皇位を継承できず、播州一国の主にあまんじなければならないことを、人丸が憤ったためである」と主張する。それに対し、橘諸兄の執権物部勘解由左衛門秀長は「法皇が皇子を疎んじた訳でもなく、まして橘諸兄が皇子を軽んじたことはない」と述べる。諸兄は、一触即発の二人を制し「歌の聖(ひじり)人丸が、歌道が廃れるのを嘆き、霊験を顕した」と説く。法皇は諸兄の説に感じ入り、歌道興隆のため和歌一万首を撰ぶよう勅令を発す。五千首を長屋の皇子に、また五千首を諸兄に撰ばせ、『万葉集』編纂が行われることとなる。

 

 

 室の津絵島屋

 

玉鶴屋の傾城三笠が、身請けの客が待ちわびる絵島屋にやって来る。絵島屋の亭主は、三笠に、何とか客に会ってくれと頼むが、三笠はしぶる。折しも、外から謡の声が聞え、三笠はその男を内に招きいれる。男は、三笠の兄国資であった。国資は、妹辻(傾城三笠)の夫巨勢の敦成が、何者かに殺害された後、残された辻とその子亀松を引取り、老母とともに養ってきた。そして、突然消息を絶った妹が、室の津で遊女となっていると聞き探しにきた。国資は、妹を不義者と責める。辻は、老母と亀松を独力で養い、兄の負担を軽くしようと考えていた。播州玉鶴屋への腰元奉公の口があると聞き、収入が得られ、人の往来の多い場所でもあり、夫の敵を探すのにも最適だと奉公することにした。しかし、それは遊女奉公であった。が、騙されたとわかってからは、客と肌を触れることはなく貞操を守り続け、今では遊女屋の亭主にも厄介者扱いにされている、という。国資は、妹の話をにわかには信じられず、打擲する。そこへ、諸兄の家来で、廓では善と呼ばれる上客(佐久間隼人喜澄)が割って入り、三笠を身請けし、三笠に夫の敵討をさせる、と約束する。

 

 藤原広嗣が亭主義兵衛を呼び、佐久間の放蕩を聞いた上で、佐久間に諸兄からの書状を見せる。人丸廟の社領を、当初の千両から二千両で買い取る指示を伝えるものであった。ところが、佐久間は、千両を取り置き、あとは室の津の遊蕩で遣い果たし、さらに、三笠を請け出す費用に取り置きの御用金を当てようと考えていた。弘嗣は、自害しようとする佐久間を止め、自分に任せよと言う。玉鶴屋の亭主は、金が整わねば三笠の身請けはご破算、とせまる。窮地に陥った佐久間は、亡くなった妻の実家、按察の家宝である「件(くだん)の旗」を質に置き、弘嗣が、社領買受の不足分を庄屋から借り受け、それを身請けの分にまわすことを提案する。金の工面がつき、各々立ち去った後、玉鶴屋亭主達が、広嗣と一味であることを偶然聞いた国資は、亭主を殺し、老母と亀松がいる和泉へ立ち退く。

 

 

[第二]

 

 長屋皇子邸

 

藤原広嗣は、長屋皇子のもとに戻り、佐久間から旗を手に入れたことを報告する。そして広嗣は皇子から『万葉集』の五千首と、諸兄が所持する神武の鎧の入手、さらに諸兄暗殺を命じられる。広嗣は、来合せた按察兵部に、諸兄が、佐久間の妻(兵部の娘)に横恋慕し、娘の死は、それを苦にした自害、とまことしやかに告げる。佐久間は主人諸兄の不行跡露見を恐れ、口封じに按察の家宝の旗を広嗣に渡したのだと煽り、娘の敵諸兄を討て、とそそのかす。

 

諸兄を招いて『万葉集』撰定慰労の宴が催される。長屋皇子・広嗣・綱手藤太らが諸兄を迎え、諸兄の家来物部屯之助成村は、健児所(こんでいどころ・平安時代、諸国の国府で健児が詰めていた所 。こんでいしょ)に控える。皇子は藤太に舞を所望し、隙をみて按察に諸兄を討たせようとする。そこへ主人の危急を知った成村が鐘を担いで現れ、藤太を打ち据える。その鐘は、按察が亡き娘の供養のために鋳させたもので、その鐘の力で、皇子は法皇調伏の祈願をしたが、効果が現れず邸に放置してあった。皇子は、事の露顕を恐れ逃げ出す。按察は、諸兄から事実を知らされ侫人(ねいじん・へつらう人、よこしまな心の人)の言葉を信じたことを恥じ、自害しようとする。諸兄は、「子(娘)ゆえの心の迷い」と自害を止める。

 

 

 奈良の左大臣橘諸兄邸 

 

諸兄の邸では、子息万千代が『万葉集』撰歌の清書をしており、佐久間が警護にあたっている。佐久間は按察から旗の返却を再三求められているが、その都度理由を付けて引き伸ばしている。邸に曲者が忍び込む。佐久間が捕えてみると、広嗣である。『万葉集』のの五千首が集まらない息子のために、すでに清書を終えている諸兄の四千首を盗み出そうとしたのである。「室の津での恩をここで返せ」と広嗣は佐久間に迫る。拒否する佐久間に、広嗣は、すべてを暴露すると脅迫する。

 

橘諸兄の執権物部勘解由の妻色香が、聖武法皇御製の歌を持参する。

 

広嗣が再度邸に忍び込み、曲者の侵入に気づいた万千代が小刀を投げる。万千代の声に邸の一同が集まってみると、万千代の小刀は鹿を殺めていた。鹿殺しは奈良では大罪である。万千代は自害しようとする。その時、蔵で諸兄の家来植安丹治が殺され、清書した和歌が盗まれていることが判明する。鹿殺しの犯人を捕らえに来た按察に詮議の猶予を願う。

 

 

[第三]

 

 水間の里街道

 

秦民部太郎国資は、江戸兵衛と呼ばれ、奴となって老母、女房おさのと、妹辻から預かった亀松を養育している。

 

江戸兵衛と亀松が、鳥毛を振り振り街道を帰って来る。人々は珍しがって様々な荷の持ち方を所望する。広嗣の家来一行が通りかかり。亀松を邪慳に扱われた江戸兵衛は、一行のことごとくを投げ飛ばす。その働きを見た広嗣家の執権猪熊平内は、江戸兵衛を召抱える約束をする。

 

 

 江戸兵衛住家

 

江戸兵衛は住家に戻り街道での出来事を話し、武士に取り立てられることになったと告げる。江戸兵衛が持ち帰った挟箱をあけてみると、高価な反物が入っており、街道で取り違えたらしい。江戸兵衛は、挟箱を預かっている旨を書いた張り紙を要所に張り出す。

 

挟箱の持ち主、二見屋の手代伝八が訪れ、その対応に腹を立てた江戸兵衛と喧嘩になりそうになる。その時、亀松が伝八の脇腹に小刀を突っ込む。張り紙を終えて帰って来たおさのは、手負いの伝八を見つけ、老母から事情を聞き、ここで死なれては難儀がかかると、伝八を反物で釣って村はずれまで連れていく。

 

 

 亀松詮議

 

橘家の執権物部勘解由左衛門は、巡見中に江戸兵衛の詮議に立ち会う。奴江戸兵衛は、以前は武士秦民部太郎国資で、また藤原広嗣に仕官することになっている、と明かす。武士を嘲弄する伝八を討った亀松は、武士の子として立派な働き、と主張する。二見屋の主人は厳罰を望む。勘解由は、喧嘩両成敗、と亀松に縄をかける。

 

そこへ、橘家の若君万千代が鹿殺しの大罪を犯し、和歌の清書も盗まれたとの知らせが入り、詮議を延期せざるを得なくなる。が、国資は主人への対面が遅れると、裁定をもとめる。勘解由は、仕官前にもかかわらず、武士の威勢を振るうのは許し難い、と入牢を申し付ける。老母・女房・亀松らは、涙ながらに許しを乞う。そこへ伝八落命の報が届き、亀松の処罰が決まる。老母と女房おさのが、亀松の身替りを争う。勘解由は、亀松を中に立て、二人に亀松を引っぱらせて、引き勝った者を亀松の身替りと定めようと言う。その結果、おさのが亀松を引き取る。

 

ところが勘解由は、老母を亀松の身替りとする。勘解由は、血のつながる誠の親であれば、両方から引っぱられる子の痛みを思い、手加減するものである。おさののように、力一杯引くことはできないと諭す。おさのはそれを聞き、夫の脇差を喉に突き立てる。義理の妹お辻から預かった亀松とは、継母継子の関係である。継母であっても立派に養育していると老母からも世間からも褒められ、自分こそ継母の鑑だと、内心思っていたが、夫や姑の目にはどう映っていたか。今の裁きによって、いかに自分を偽り飾ってきたか、血のつながっている子が一番かわいいのが道理なのである。おさのは、その欺瞞が白日のもとに曝された恥で自害する。


勘解由は、伝八殺しの犯人として、手負いのおさのを獄屋へと引かせる。

 

 

[第四]

 

 道行「児手柏」

 

秦民部太郎国資と亀松の奈良への道行。

 

 

 春日大社

 

橘諸兄公の御台所・物部勘解由の妻色香・佐久間隼人喜澄の妻辻が揃って春日大社に参詣する。御台は、鹿殺しの罪を犯した万千代の身替りと和歌紛失の件を二人に相談する。長屋皇子の仕業であるとはわかっていながら、確たる証拠もない。色香には子がなく、辻には竹若という子がある。色香は、忠義のために、竹若を万千代の身替りにたてるべきだと、辻に決意をせまる。辻は、もと室の津の遊女で、請け出されて佐久間の後妻となった。竹若は先妻の子で、自分にとっては継子である。

 

御台は、佐久間の子を身替りにしようという計略は諸兄の案で、佐久間に直接命じずに、辻に子の首を討たせよ、との命令であることを告げる。実はそのために色香と示し合わせて口論させ、辻に気の張りを持たせようという一計であったと明かす。辻は、涙をこらえながら邸へ帰る。

 

 

 佐久間隼人邸

 

辻は、先妻の子竹若の首を打つことができようかと嘆く。そこへ兄国資が、辻の実子亀松を連れて訪れる。久しぶりの母子の対面に涙するうちにも、勘解由の奥方色香から、身代り催促の使いが来る。辻は国資に亀松を引き取りたいと申し出るが、国資には、先妻の子竹若の替わりに亀松を佐久間の世継ぎにする魂胆か、と疑われる。そこで辻は、主君の子息万千代君の身替りを立派に勤める忠節は、継母根性と後ろ指をさされても、遊女の苦界から請け出してくれ、先夫の敵討ちの助力をすると約束してくれた佐久間への義理を果たすため、と打ち明ける。辻は、亀松を竹若と称し、身替りに首を討って差し出せば、主君への忠義と佐久間への義理が全うできる、と訴える。が、国資は、亀松は殺させない、と帰ろうとする。なんとしても辻は帰すまいとする。国資は亀松を連れて奥の一間に入る。

 

辻は、切羽詰って兄国資もろとも亀松を討とうと決意をかためる。夫佐久間は辻を止め、主君の命令であるなら、身替りは家の誉れである、と竹若の首を辻に討たせようとする。その時奥の一間より国資が現れ、袖から亀松の首を取り出し、辻の手柄と、差し出す。国資は、お家の大事を他言しない誓約として、亀松の首を討ったと告げる。佐久間が、亀松の首を竹若と称して御前へ持参しようとする。国資は、せめて首は辻に持たせてやってほしいと願い、辻も最期の一目と、国資に亀松の首を見せ、諸兄公の邸へ向う。

 

 

[第五]

 

 左大臣橘諸兄邸

 

佐久間は、辻とともに首桶を持参する。諸兄は、佐久間夫婦の忠義に深く感謝する。佐久間は、褒美として神武の鎧を預かりたい、と望む。奥の一間から勘解由が鎧櫃を運び出し、佐久間の前に据える。開けてみると、その裏板には竹若が縛りつけられている。勘解由は佐久間が、長屋皇子にくみして旗を渡し、和歌を盗み出す手引きをし、神武の鎧を奪おうとしていることを責める。実は、勘解由は、辻の実子を竹若の身替りにしたこと、辻の兄国資は出家して立ち退いたことを確認し、竹若を奪い取った。盗み取った和歌のありかを白状しなければ竹若を斬る、とせまる。

 

佐久間は脇差を腹に突き立てる。そして、室の津での公金横領、その穴埋めを広嗣に頼んだことで、旗や和歌を渡すことになってしまった事情、そして今度は神武の鎧を所望された。すべてその場逃れの行動ばかりをとってきた。辻の先夫を殺したのも自分であると告白する。

 

次の間に控えていた按察が、春日の神の掟により、鹿殺しの罪人万千代を申し受けると現れる。辻は、亀松の首を万千代の首として差し出すが、按察は「十三歳の万千代の身替りが、六歳の亀松では、神を騙し神罰を受ける」と言う。諸兄は万千代を切腹させる決意をする。が、その時、佐久間が竹若の首を討ち、亀松六歳、竹若七歳、あわせて十三歳の首を受け取れと迫る。按察は、旗を取り出し、これまでの仕打は、竹若を討たせるための計略。「鹿殺しの十三歳の首受け取った」と高らかに告げながらも、孫を失った悲しみにくれる。佐久間は勘解由にとどめをさされる。辻が自害しようとするのを諸兄がとめる。そして、二人の子供の追善のために、興福寺菩提院の鐘を六つと七つの間に衝くゆえに「十三鐘」と名付けよとの命令が下る。

 

 

 興福寺菩提院「ふた子物ぐるひ」 

 

興福寺菩提院に狂気となった辻がさまよい来る。二人の子供の追善のために、鐘を衝くことが許される。国資入道が、諸兄公もこの寺で仏門に入られたと告げ、辻にも出家を勧める。

広嗣等が、軍勢を率いて菩提院に攻め込んで来る。諸兄は、広嗣等を長屋皇子もろともい罪科に処す、との院宣を受けて菩提院に籠っていた。勘解由は猪熊平内を討ち取り、長屋皇子はすでに屯之助成村に生け捕られ、逃げようとする広嗣は行く手をはばまれ、国資は、佐久間の恨みを晴らすために広嗣を討つ。

 

 

 

 

 

 

 

詞章

 

南都十三鐘 なんとじゅうさんがね  作者/並木宗助・安田蛙文

 

第一

 

 

 興福寺御幸

 

西域記(さいいくき)に曰く。大垣の中に精舎あり。乃至我レは人身の鹿。爾(なんじ)は鹿身の人なり。是こゝに於て悉諸(こと/\くもろ/\)の鹿を放ち。復(ふたたび)命をとらざりし。施鹿(せろく)の林も今こゝに。奈良の都の時とかよ。聖武法皇と号(がうし)奉るは。御子称徳天皇に御(み)位イは有りながら。天下の為の政(まつりごと)。院の御所にて御ン沙汰有り。賑ふ四つの民草や〽栄は代々に。勝(すぐ)れける。

 

三教一致としろしめし殊に仏ケを貴(たつと)み給ひ。自ラ三宝の奴と称じ御法の道に染覚他(そめかくだ)。興福寺(こうぶくじ)に御幸(みゆき)有り。ければ御従兄弟のさがな人。工(たくみ)程へし長屋の皇子我レは㒵(かほ)成ル供奉(ぐぶ)の体。次に大度の御粧(よそほ)ひ左大臣橘の諸兄公。執権物ノ部勘解由左衛門秀長。八省百官式法に袖を連ねて如月や。中の五日の常楽会(じょうらくえ)。東金堂を御座となし。我レを浄(きよ)むる会式(えしき)の庭 各感悦限りなし。

 

法事も終わる折からに。皇子の随身(ずいじん)広嗣(ひろつぐ)が弟。綱手(つなで)の藤太(とうた)広宗あはたゝ敷ク馳参じ。兄にて候藤原の弘嗣。院宣(いんぜん)により播州明石に人丸の廟。衆力を以て築(きづく)といへ共。廟崩るゝこと早三度。法皇の御怒りを憚りさしひかへ候所に。此度震動おびたゝ敷ク。元の平地となりしこと。是朝庭(てうてい)の大事と計(ばかり)広嗣飛脚到来と。いふに法皇御驚き座次(ざなみ)の面々顔見合せ。眉をひそむる計なり。

 

橘の諸兄すゝみ出。人丸は朝庭の忠臣。末代にしらしめんと明石の浦の名歌に因(ちなみ)。其地に廟を築ことは皇子に院宣なし給ふ。何某は田地百石寄進すること。家来佐久間隼人に申付。共に播州に罷有ル。広嗣が訴(うつたへ)は皇子の賢慮(けんりょ)いかゞぞと。問れて態(わざと)おとなしく。寄妙(きめう)才智のおことさへ口を箝(つむぐ)評定。我及ぶ所にあらず。

 

とはいひながら訴へしは綱手の藤太。それにひかへし勘解由左衛門兼て案者(あんじゃ)と聞及ぶ。一向彼等が評議を聞ん。

 

ヤア藤太。思ふ子細有ルならば。包まずいへと日比の工(たくみ)。さし心へてつつと出。申スはおかゞ候へ共。我主君長屋の皇子は。天武天皇の御ン孫にして。聖武天皇の御いとこ。位イを禅(ゆづり)給ふ共然るべきこと成ルに。法皇の御姫宮はや重祚(ちやうそ)し給ひて。只今称徳天皇と崇(あがめ)。皇子は僅播州一国。握りたらぬ天子の御裔(みずえ)。諸兄を始メ公卿達。蔑(ないがしろ)に致すこと地神(じじん)の咎(とがめ)有ルにより。院宣の廟崩れ震動するに極りしと。

 

兄弟しゝむる悪心を押付ケわざに云イ放せば。勘解由左衛門膝立テ直し。

 

コレサ藤太過言/\。禁庭の御ンことを詞にかうるも恐れながら。聖武皇帝御ン錺(かざり)を落(おろ)させ給ひ法皇と成リ給へ共。院の御所にて天下の政(せい)たう行ひ給ふも民の為。道を立テ恵を施し給ふ法皇。御位イのことは何(いか)で疎略(そりゃく)の有べきか。其上主君諸兄公皇子をあなどり給ふとは。慥(たしか?)に証拠有ルやいなや。金(こがね)は火を以て試(こゝろみ)。人は言(ことば)を以て試む。舌(した)長成ル一言に心の汲(くま)るゝ笑止さよと。

 

聞て藤太は気色をかへ。

 

イヤサ過言とは汝がこと。政(まつりごと)の善悪は賤しき民すらいふならひ。まして皇子の御(み)内として。批判をなすは政務の助け。支ゑる汝をとめもせぬ。

 

諸兄公の下心皇子を欺く証拠也。返答あらばいへ聞んと。主の威光を笠に着て。上(かみ)を恐れず立あがれば。勘解由左衛門ハッタとねめ付ケ。

 

理非は各別御前へ無礼。此方より手ざしせず元の座に飛しされと。

 

ちつ共動せぬ詞の末。皇子見兼てヤア藤太。さしひかへよと押しづめ。

 

彼が評議は忠義だて。皇子が心に決定せず。ナウ諸兄。地神の咎もさる事かいかに/\と問かくる。

 

諸兄は玉座に頭をさげ。法皇仏法に帰依有て。

 

四十八ケ所の伽藍。毎州国分僧尼の両寺(じ)。御建立に暇(いとま)なく。平等利益の誓にて万民安く候へども。我敷島の歌の道もてあそぶ人もなし。人丸は古今に独歩の歌人なれば。歌道の廃(すだれ)を嘆くにより。其廟にのり霊験あり。全(まったく)天下の大事にあらずと。

 

理をたゞしたる御詞。皇子主従へいこうし。一座の諸卿諸共にアツト感ずる計なり。

 

聖武法皇御感有り。諸兄が詞実(げ)にも一々理に当れり。

 

ヤア長屋王。汝を太子に立べけれ共。天下は一人の天下にあらず。万民なびき合ずしては天子とはいふべからず。思ふ子細の有ル故に今迄は其沙汰なし。幸イ人丸の霊験に任せ和歌一万首を撰(ゑら)むべし。両人撰者たるべしと。

 

院宣重き規模の役共に領掌(れうじやう)有ル所へ。南大門の方よりも衆徒の張本(ちやうぼん)按察(あぜち)の兵部。大の唐犬家来にひかせ御前遥に謹んで。

 

当地の鹿は春日の神使(しんし)。もし過つことあれば天子の凶事と云イ伝ふ。然るに皇子の唐犬とて。鹿をおつ立テ難儀に及ぶ。すべて在家の飼い犬共おびたゝ敷ク候へば。宜(よろしく)御沙汰と相のぶる。

 

諸兄は院宣承り。

 

ヤア/\兵部。春日の神使にかへがたし。今よりは一月(げつ)一度犬狩を致すべし。唐犬は綱手の藤太。ソレ受とれとの給ふ内。

皇子は藤太に目合(くば)せし兼て祈れる犬神の法。験(しるし)を見せよ

 

とためらふ所に。唐犬するどく眼(まな)ざしかはり法皇をにらみ付ケ。毛を逆立テ飛びかゝるを。勘解由すかさずおづゝを握り。引キもどして捻(ねぢ)たおしおき上るをハタとける。つゞいて喉首ふみ付ケられ。眼(まなこ)を見出し死てげり。

 

皇子大きに怒(いかり)をなし。秘蔵の唐犬けころしたる慮外者と。いはせも立ずあざ笑ひ。

 

鹿を損ふ唐犬。生(いけ)おいては皇子の御難儀。玉座を目がけし畜生の朝敵。けころしたになんのこと。犬がほしくばコリヤ藤太と。

 

投出す死骸ほゐなくも。王城の地しるしには。是ぞ誠の犬死かとかへす詞もなかりけり。

 

法皇勘解由を賞美有リ。是犬狩の始メとして遠慮なく狩出せと。仰を悦び按察の兵部ハツト計にうづくまる。

 

はや還幸(くわんかう)の御規式(ぎしき)万葉撰者の両人は。雲井を見こす長屋の皇子。悪心有リとは知りながらもLもれぬ諸兄公。今も直衣(なをし)の袖匂うふ。橘氏と夕日にかけ。つれて。御所にぞ〽還御(くはんぎよ)有ル。

 

 

 

 室の津絵屋

 

行く水に。数かくよりもはかなきは。波にゆらるゝうかれめの。うけは勤めの常ながら。姿を花と咲キにほふ室の湊ぞ賑はしき。都も恥ぬ女郎の中にふりよき道中は。里にかゝやく玉鶴屋松の盛リとみさむらひ。三笠といへば誰人もぬれて。此身を揚屋町絵島屋。にこそ入リにけれ。

 

てい主義兵衛は横島を己レが思ふ勝手に出。

 

エ大夫さま。よふこそ御出と云イたいが近比遅いふみ出しやう。コレよふ物を合点あれ。三笠と云女郎は客を振る癖たへぬとて。既(すでに)ひつしりお茶を引キ戸棚の番をする計。親方の権蔵は兄弟同前に語る中。笑止に思ふ最中へ上方の善(よし)といふ大臣。のぼり詰たを幸イ。ことし中は揚詰(あげづめ)さき銀取ツたも我らがちゑ。

 

それを悦ぶ気色もなく。今迄客に帯とかず。揚屋入りは迎ひを百度。お客は奥に欠(あくび)を千万義兵衛が胸はみぢんに砕(くだく)る。推量あれとぞつこど也・・・・・・(中略)

 

 

 

 ふた子物ぐるひ

 

御法の道に入汐の。/\あまねく人をすゝめん。是は菩提院の住僧にて候。又是成。人は。愚僧を頼むよし仰候程に。師弟の契約をなし申て候。折からこよひは。鹿を殺せし児(ちご)の一ト七日に当り。橘の諸兄公追善をなし給ひ候へば。法事に伴ひ申さばやと存候。いざとむらはん我寺の。御法の舟に棹さして。真(まこと)の道は菩提院有がたくこそ。

 

実(げに)や人の親として、いとをし悲しと。そだてつる。子にはなれたるかた糸の。乱れ心や狂ふらん。狂ひうかるゝ。うたかたお。あはれやこゝは征法場(せいほうば)。日ははや過て一七日。きのふはけふの一むかし。うき物がたりと奈良の里。世をさる沢の根なし草。うきかずとへば六つ七つ。義理有ル中と真実の。乳(ち)を分ケたりし中々に。跡に残りし其親の身の。さかさまなりし手向山。紅葉ふみ分ケ小男(さお)。鹿の。かへろとなくは。そらごとよ。我子をかへせあはせよなふ。アゝ我レながらかくいへば。物狂ひとや笑ふらん。思ひわすりよ何ごとも。さら/\/\と宜川(よろしがわ)。かはいや恋し。床しさも。忘れんと思ふ心こそ忘れぬよりは思ひなれ先だつふたりが年の数。十三鐘を弔(とむらふ)につく/\゛。守り立よれば。

 

住僧見るよりかけ出て。ヤアおろか也女。此撞(つき)がねは六つと七つの間をつく。汝そこつに時ならぬひゞきをなさば狼藉たり。早くかへれと有りければ。

 

ナフ 其数こそ思ひの種。たとへば時はちがふ共我身に。あたる。六つ七つ。いつとて鐘をつかざらん。柳の糸の乱れ心いつ忘れふ。アラ心なの御僧や。親にも子にも夫にも死わかれせし数々の。うきとつらきに身をせめて。男鹿(おじか)の角の束の間もおもかげたゝぬ時もなし。思ひ乱るゝ其種の。我子は塚にはかなやと。かつはとふして。泣沈む。

 

住僧心に打うなづき。扨は密(ひそか)に聞及ぶ佐久間殿の内室かや。見るにあはれをもよほせば。いざ弔ひに撞がねをとく/\ゆるし候へべし何ゆるすとや此かねをつく共尽ぬ悲しさの。我レは有ルにもあられふ物か。責て二人がぼだいの為と。心は真如の撞がねを一つついては。独り涙の雨やさめ。二つついては二人の我子を。三つ見たやと四つ夜ごとに泣キ明す。五つ命がかへてやりたや。六つ報いは。何の咎めぞ七つ涙で。八つ九つ心も乱れ。十ウも語るも。恋しなつかし我子の年は。六つと七つと十三鐘のかねのひゞきを聞人ごとに。かはい。/\/\と友泣キに。なくはめいどの鳥の声

 

鐘の功力に。よるならば弔ふ人はおのづから。蓮(はちす)の上に法(のり)の声。先晨朝(じんじやう)のひゞきは。生滅滅巳(めつい)。入相は。寂滅為楽と。ひゞ共。六つと七つの間イの鐘いかにひゞかん悲しさと。涙の池やさる沢に。我身を投てみくづと成リ。めいどの道の迷い子に。追。付かんととかけ出す。コハ浅ましと引とむれば。ふりはなし打はらひイテ。煩悩の犬と成ッて。稚(おさな)き二人の子の敵。鹿の根を絶やさんと乱るゝ中に。乱れ咲キ花も。紅葉も月雪も。消えなばきゑね何にせん。根の涙わき返り。どう/\/\とたきつ浪。手向けの水も思ひにむせび。かしこに走り。こなたに戻り。りんゑの車くる/\と狂ひ。わなゝき。目もすはり。あらうらめしのさを鹿や。にくやつれなや腹立チと。科なき僧を引ッとらへ。てう/\/\と打チ立れば。驚きながら狂人に手向イならずと住僧は。御寺(みでら)に逃げ入給ひけり。

 

狂女はけら/\あざ笑ひ猶追かくる向ふより。国資入道隔たりヤレ妹しばし/\。なき人々のぼだいの為。かくなりはてし兄の国資。心を付ケよ妹と押しづめたる㒵と㒵ヤア兄様かなつかしや。夫にはなれ子にくれ、我レ共しらぬ物狂ひ。あはれみ給へと計にてすがり。付てぞ泣ゐたる。

 

ヲゝさいふ所は本ン心違はず。女は業障深き故嘆くは却而(かへつて)子の迷ひ。橘の諸兄公此寺に入り給ひ。二人の児が追善有り。かゝる法事に受戒をなし。汝も共にすみ染のあまたの亡者弔へと。聞て嬉しや有りがたやいざゝせ給へと云よりも。煩悩則チ菩提院ともなひ。てこそ〽いりにけれ

 

然る折ふし藤原の弘嗣。猪熊平内ぐんぜい引ぐし門前に大声上。ヤア/\諸兄。万千代をとむらひと引籠りし横道者。身がはりにてあざむく罪汝を直ぐに石こづめ。出あへやつよぞよばはつたり。聞クより橘諸兄公英雄豁如(くはつちよ)の御声高く。ヤアこざかしや広嗣。長屋の皇子に謀反をすゝめ。我ゑらみたる万葉清書を盗み。鹿あやまちしも汝がなすわざ。皇子諸共罪科のよし院宣をうけし故。某わざと引籠り手ざしを待ツに幸々。アレうちとれとの給へば勘解由左衛門とんで出。前にすゝみし平内をたゞ一うちにうちころし。大ぜいを追ッちらせば。

 

コハかなはじと広嗣は。ひつかへす向ふより。屯之助成村なは付キひつたて立チふさがり。院宣により長屋の皇子某がいけどつたり。広嗣かくごとねめ付ケられ。ハットうろつく後ろより国資入道ヤアしばし/\。聟佐久間をたぶらかし。某迄組させんとはかりし広嗣。御前へ云訳佐久間が恨み。向後出家の精進入。某料理致さんとつゝとよつてハツタトけたをし首引ぬき。御代は納る橘の。家も栄え国栄え天下。安全民繁昌めでたかりけることのはを伝へ。/\書キ残す

 

 

  右伝ゆる所の正曲の調(しらべ)は節(ふし)博士何も其品多し
  七行和漢大字のかなづかひ迄世間あやまりてあざ
  むく類板(るいばん)を出す甲乙てにはのたがひわづか成とても
  正本にあらずこのゆへに西沢九左衛門義教(よしのり)改て梓(あずさ)
  寿(ことぶ)く予花押の記(しるし)を添ゆる事しかなり


                豊竹上野少掾
                大坂心斎橋南四丁目西側 正本屋九左衛門板

 

 

                 

 

 

 

 

 wikipediaを参考に、以下に史実を少し纏めてみた。

 

 

 ●長屋王

 

聖武天皇の治世の初期は皇親勢力を代表する長屋王が政権を担当していた。

 

この当時、藤原氏は自家出身の光明子(父:藤原不比等、母:県犬養三千代)の立后を願っていたが、長屋王は慣習を鑑みこれに反対していた。

 

ところが神亀6年(729年)に長屋王の変が起き、長屋王は自殺。

 

反対勢力がなくなったため、光明子は非皇族として初めて立后された。

 

長屋王の変は、長屋王を取り除き光明子を皇后にするために、不比等の息子で光明子の異母兄である藤原四兄弟が仕組んだものといわれている。

 

なお、最終的に聖武天皇の後宮には他に4人の夫人が入ったが、光明皇后を含めた5人全員が藤原不比等・県犬養三千代いずれかまたは両人の血縁の者である。

 

 

 ●橘諸兄

 

7年余の時が流れ、

 

天平九年(737)4月から8月にかけて、天然痘の流行により政権を握っていた藤原氏四兄弟ほか政府高官のほとんどが次々と死亡してしまう。

 

実質出仕できる主たる公卿は鈴鹿王と橘諸兄のみとなる。

 

そこで朝廷は橘諸兄を大納言に任命するなどして応急的な体制を整える。

 

翌天平十年には、諸兄は正三位・右大臣に任ぜられ、一上として一躍朝廷の中心的存在となる。

 

以降、諸兄は国政を担当、吉備真備・玄靴鬟屮譟璽鵑箸靴独甘Г掘∪刺霤傾弔鯤篋瓦垢襪海箸箸覆辰拭

 

 

 ●藤原広嗣

 

一方、諸兄の出世と時を同じくして、藤原宇合の長男・広嗣(藤原式家)は大養徳(大和)守から大宰少弐に任じられ、大宰府に赴任した。

 

広嗣はこれを左遷と感じ、強い不満を抱いた。

 

天平十二年(740)8月に広嗣は政権を批判した上で、真備と玄靴鯆品するよう朝廷に文書を送るが、国政を握っていた諸兄への批判及び藤原氏による政権回復を企図したものと推察される。

 

同年9月、広嗣は政権奪取のために九州太宰府において挙兵し、弟の綱手の軍とともに進軍する。

 

これを受け朝廷は1万7千騎を討伐軍として九州に差し向ける。

 

広嗣は板櫃川の戦いで官軍に敗れ、11月に弟綱手とともに処刑される。

 

 

 ●聖武天皇

 

天平年間は災害や疫病が多発したため、聖武天皇は仏教に深く帰依し、天平十三年(741)には国分寺建立の詔を、天平十五年(743)には東大寺盧舎那仏像の建立の詔を出している。

 

これに加えてたびたび遷都を行って災いから脱却しようとしたものの、官民の反発が強く、最終的には平城京に復帰した。

 

天平勝宝元年7月2日(749年8月19日)、娘の阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位(一説には自らを「三宝の奴」と称した天皇が独断で出家してしまい、それを受けた朝廷が慌てて退位の手続を執ったともいわれる)。 生前譲位(太上天皇)した初の男性となる。

 

天平勝宝四年4月9日(752年5月30日)、東大寺大仏の開眼法要を行う。

 

天平勝宝六年(754)には唐僧・鑑真が来日し、皇后や天皇とともに会ったが、同時期に長く病気を患っていた母の宮子と死別する。

 

天平勝宝八年(756)に天武天皇の2世王・道祖王を皇太子にする遺言を残して崩御した。戒名は、勝満。

 

 

 ●橘諸兄・その後

 

天平十五年(743)従一位・左大臣に叙任され、天平感宝元年(749)にはついに正一位に陞階。生前に正一位に叙された人物は日本史上でも6人と数少ない。

 

しかし、同年孝謙天皇が即位すると、国母・光明皇后の威光を背景に、大納言兼紫微令・藤原仲麻呂の発言力が増すようになる。

 

天平勝宝七歳(755)聖武上皇の病気に際して酒の席で不敬の言があったと讒言され、翌天平勝宝八歳(756)辞職を申し出て引退する。

 

天平勝宝九歳(757)1月6日薨去。享年74。最終官位は前左大臣正一位。

 

諸兄の没後間もない同年5月に、子息の奈良麻呂は謀反(橘奈良麻呂の乱)を起こし獄死している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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