妄想オムライス
床下は骨伝導 ワ((゚゚дд゚゚ ))ワワ !!!!!



寺岡平右衛門

胸アツだった12月文楽公演『仮名手本忠臣蔵』。

 

ねい、ねい、かっこよかった平右衛門についてちょっと調べてみた。

 

 

 

歌舞伎登場人物事典 によりますと、

 

寺岡平右衛門 (『仮名手本忠臣蔵』)

 

〔物語〕

足軽の寺岡平右衛門は、祇園の一力茶屋に遊ぶ大星由良助に敵討ちのお供を願い出る。平右衛門は、妹お軽を口封じのために身請けして殺そうとする由良助の心底を悟り、由良助に代って妹を成敗し、その功によって敵討ちの連判に加わろうとする。平右衛門の覚悟を知った由良助は、平右衛門に本心を明かして敵討ちの供を許す。

 

〔出典・モデル〕

赤穂浪士の寺坂吉右衛門(1665〜1747)がモデル。足軽頭吉田忠左衛門組下の足軽で三両二人扶持の軽い身分ながらも敵討ちの義盟に加わり義士の連絡役を勤めたが、元禄十三年(1702)十二月十四日、吉良邸討ち入りの当日に姿を消した。大石内蔵助は、「寺坂吉右衛門儀、十四日暁までこれあり候ところ、彼の屋敷に見え来らざる由、かろき者の儀、是非に及ばず候」(寺井玄渓宛て書簡)と記している。一方、寺坂吉右衛門は討ち入りに加わったのち、密命を受けて書状を届けるために立ち退いたという噂もあった(『堀内伝右衛門覚書』)。寺坂を討ち入りに加わった義士とするか、逃亡をした不義士とするかで国論は二分された。儒学者の佐藤直方、浅見 絅斎、太宰春台らは不義士として「四十六士」を論じ、室鳩巣、荻生徂徠らは寺坂をふくむ「四十七士」を顕彰した。寺坂吉右衛門はその後、吉田忠左衛門の親類に仕えたのち、延享四年(1747)十月六日に江戸で83歳の生涯を閉じた。『寺坂信行筆記』は、吉右衛門が遺した覚書を孫の寺坂吉右衛門信成がまとめたものである。

 

〔演出・扮装〕

寺岡平右衛門は、人形浄瑠璃の原作にはない歌舞伎独自の演出が見どころになる。酔って寝てしまった由良助を見限って帰ろうとする三人侍を止める場面では、「しばらく、しばらく」と掛け声をかけて出て、「飲んだ酒なら酔わずばなるまい、酔った酒なら醒めずばなるまい、醒めての上の御分別、申し」と言って二重舞台から飛び降り、あぐらを組んでギバに落ちる派手な演出を見せる。由良助を介抱する場面を通称「蒲団と枕」という。軽い笑いのうちに、平右衛門の木訥とした味わいが出るところ。後半、妹のお軽と再会してからが見せ場。お軽の姿を見て褒めるところ、勘平の消息を聞かれて言い紛らすところ、由良助の本心が「読めたっ」といって義太夫の三味線のメリヤスに乗り喜びを押し殺して早口にせりふをいうところ、癪を起したお軽を介抱するところなど、歌舞伎で工夫された「入れ事」の演出が続く。「小身者の悲しさは、人に勝れた心底を見せねば数に入れられぬ。聞き分けてくれ、死んでくれ妹」とお軽に因果を含め、もろ肌を脱いだ両袖を持って悲しみをこらえるところが見どころになる。扮装は、「平」の字の紋を付けた黒の着付け、もろ肌を脱ぐと絞りの襦袢になる。鬘は、カラの椎茸。

 

〔その他〕

モデルとなった寺坂吉右衛門が死んだ翌年、寛延元年(1748)八月十四日に大坂竹本座の人形浄瑠璃で初演。翌年、江戸三座で競演されるなど歌舞伎の人気狂言となった。

 

 

と、平右衛門の役どころとお人柄などが見えてきた。

浄瑠璃の無いところでの仕方は歌舞伎の入れ事のだったのね。

 

歌舞伎で七段目を見た事がないので台本を読んでみる。

 

 

演劇叢書 第7編 仮名手本忠臣蔵 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/876919

 コマ39(七十四頁)


浄瑠璃「影を隠すや」と送りになり、

 

平右衛門あと見送り、色々こなしありて奥を覗き手を叩くと、内より

 

仲居「アイアイ、何でござんすかえ」と出て来る。

 

平右衛門、仕方すると、

 

仲居「アノ、お布団と枕、取って来るのでござんすかえ」

 

平右衛門「アコレ」と抑え、早う取って来いというこなし。

 

仲居「ハイ、枕にお布団。」と大きな声で言うを、


平右衛門「シイ」と抑える。

 

仲居「モシ、それで用はござんせぬかえ」と言うを平右衛門、奥へ行けというこなし。

 

仲居「アイアイ、合点じゃわいなあ。」と奥へ入る。

 

平右衛門、よろしく(由良之助に)蒲団を着せ枕をさし、色々有りて、

懐中より願書を出して(由良の)前に置き、下手(しもて)に来て窺うている。

由良之助、寝返りしながら取り上げる。

これにて平右衛門、思い入れ有りて奥へ入る。

 

 

先日見た文楽では、由良助は願書を投げ返し、平右衛門は諦めて?立ち去って行く。

立ち去る時に平右衛門が担いだ道具は、刀に着物を巻き付けたものなのかな?

足軽とはいえちゃんと刀を持った武士なのよね。

 

 

なんせ舞台袖で「しばらくしばらーく!」と呼ばわって登場するのもかっこいいし、

なんせ妹思いだし、なんだかんだ優しいし、

なんせ、なんせ、簑助さんのおかるカワイイ〜ぎえ〜〜ってなってる所へ、

平右衛門が私の視界にずかずかどかどかと入り込んで来たからふんが〜〜

心の準備もできてないのに平右衛門ここでだっけ?gt^rwf@がっちょええwp−

とパニックになりながらあの勘十郎さんのキレッキレ目にも止まらぬ素早さ平右衛門に

むしろ先廻りしてんじゃないかと思うくらいビッターくっ付いて行く左と足の人すげー

神技!と思ってワクワクしたのもよいおもひで。神技炸裂しながら情が深くて表情豊か。

人形なのにどうなっちゃってんのふんとにもう。

 

 

『歌舞伎登場人物事典』にあるように、平右衛門のモデルとなった実在の吉右衛門は、

討ち入りのどさくさに紛れるようにして行方知れずになる。怖くなって逃げたという説と、

大石内蔵助から受けた密命を遂行するために姿をくらました説と、二通りあるという。

 

文楽の平右衛門はその後どうなったか。十一段目の大詰には姿を現わさない。するとやはり、

みんなのヒーロー四十七士の一員として、秘密の任務を成し遂げるため十一段目では既に

平右衛門は目的地目指し独り走り始めていたのだった。討ち入りの様子、四十六士の最期の

様子を夫々の家族に伝えよと、由良助に命じられて。

 

 読んでみた 忠臣蔵 二度目清書 寺岡切腹の段 

 

 

 

 

 

 


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心中天網島 おさん
愛と死の伝承 -近世恋愛譚- 諏訪春雄 角川選書10 昭和43年12月発行 
 
p250〜書き写し


 いりくんだ家族関係

ある意味では、『心中天の網島』全篇の主人公ともいうべき、おさんの登場である。ときは、浄土宗の重要な念仏法要の行事であるお十夜の参詣のひとびとでにぎわう十月十四日の午後。この設定は、もちろん、実説によったものであるが、終始聞こえている念仏の声は、この曲の重要な基底音をなし、不幸な主人公たちの断罪と救済を暗示している。六十日ごとに問屋に支払いをする当時の紙屋としては、十月末日のはらい日をひかえてもっともいそがしいはずの日であるが、主人の治兵衛は炬燵にうたたねをしており、かわって、女房のおさんが、店と勝手のかけ持ちで、店のきりもりをしてけなげなおさんの日常があざやかに浮かびあがってくる。俗事に没頭しきっているおさん。丁稚の三五郎とのことばのやりとちの乱暴さが、かえって、町女房おさんの真剣な毎日を想像させ、おさんという女性像をリアルに、しかも、あつみとはばのあるものとしている。

この冒頭場面での阿呆三五郎の活躍は、当時の上方歌舞伎上中下三番続の中の場面の冒頭が道化方の持ち場であったという定型を借りたものであり、上巻の河庄の幕切れの深刻な場面と、やがて、中巻に展開する山場をつなぐ気分転換の場面として重要な役割をはたしている。この三五郎の役がらには、近松としばしば一座し、狂言作者としても合作した元禄の名道化方金子吉左衛門などのおもかげが投影されている。

おさんの母と孫右衛門が登場してからのおさんの態度も注目される。

十夜の念仏講で耳にした天満の大尽による小春身うけのうわさを持ってのりこんできたふたりが、治兵衛を難詰するのを、わきにいてはらはらしながら聞くおさん。夫の説明になっとくがいくと、必死になって夫を弁護し、かばいもする。家をまもり、生活を破壊されまいとして奮闘する男まさりのおさんは、まず、夫治兵衛を心から愛するやさしい心根の持ち主であったのだ。

それにしても、この夫婦をかこむ人間関係の複雑さは特別である。わかりやすく図示するとつぎのようになる。


これ、おそらくは、実説によったものであろうが、親族の相互扶助と団結のつよさは、忠告・意見という美名をかりて、あつかましさといやらしさをもって、神聖たるべきおさん治兵衛の夫婦関係のなかに無遠慮な土足でふみこんでくる。中巻の最後に登場して、いっきょに夫婦を破滅へつきおとす舅五左衛門はその典型であるが、この場面での孫右衛門や叔母にも、善意からくるやりきれないあつかましさがある。治兵衛のような直情径行な男にとっては、この種の善意は、おそらく、無意識裡にも反発を感じさせるものであったに相違ない。

治兵衛がおさんを捨てて小春に傾倒していくきっかけや過程は、そうしたことにも連想がおよぶたくみな作者の設定である。

もし『心中天の網島』が悲劇の高みに達しているとすれば、その条件のひとつは、このいりくんだ家族共同体の設定と、その成員の善意からくる必死の保存の努力にもかかわらず、共同体秩序がいさぎよい破滅をとげたことにもとめることができよう。



 捨て身の働きかけ

いよいよ戯曲はそれ自体の必然の論理にしたがって最高潮へむかっていく。上巻から尾をひく、おさんの謎の文の種明かしがされ、小春の変心の秘密があきらかにされる。そして、私娼小春と町女房おさんとのあいだに生じたたぐいまれに崇高な献身と自己犠牲の友愛が、日常次元に埋没した見るもの、聴くものを根底からゆさぶって、精神の変革を成就する。

上巻を領導するものが小春のふかい人間性であったように、中巻は、おさんを中心として、かの女のあたたかい心くばりと、生き生きとした町女房ぶりが局面の進展をリードする。

おさんは夫の放蕩を苦にし、小春にひそかに手紙を出して、夫と切れるように懇願していた。おさんは、ひとにいやしまれる茶屋女の小春をひとりの女性として、対等の立場から、さげすみもへりくだりもなく、「女はあいみたがい」として、夫の命をたすけるようかきくどいた文をだした。この誠意が小春をうち、小春もまた、ひかれぬ義理から、身命にかえがたい大事な男だが思いきるとの返事をくれた。

女房が相手の遊女に夫と手を切るよう懇願する趣向はすでに近松作以前にもあった。まえにも引用した江島基蹟の浮世草子『傾城禁短気」(宝永八・1711)の巻一の第一話「女房方便の一枚起請」には、都室町通りで、肥後(熊本県)の物産をあつかう問屋(といや)熊本屋の当主で養子聟の惣助が、島原一文字屋の太夫唐土(もろこし)にかよいつめ、親族一同が相談して勘当しようとしているのを悲しんだ女房おぎんが、相手の唐土に文をおくって、惣助の廓がよいがやむようしむけてくれと依頼するはなしが載っている。

まったく、悋気からのたのみではないと、誓紙まで入れておぎんの文に感じた唐土は、惣助につれなくあたり、惣助の乱暴にも屈せず愛想づかしをして、ついに、惣助の廓がよいをやめさせる。基蹟は、この唐土を、心中を立てて末々まであい通したのよりもはるかにまさった心意気であり、自分の利益になる客を遠ざけ、わが身を不誠実なものにしてまで、惣助に思いきらせたと賞賛している。

近松が直接この『傾城禁短気』によって上巻・中巻の趣向をかまえたものか、どうかはあきらかでない。しかし、基蹟が、自己の作品中にこの唐土のはなしを実のある遊女の例として、とり入れたのは、当時としてはきわめてめずらしい佳話であり、ひとびとtの感動を呼ぶはなしであったからに相違ない。近松もまた基蹟と同様な創作意欲をこの遊女の心意気にうごかされての劇化であった。近松と基蹟が一致していたのは、しかし、そこまでで、以後、近松は、基蹟とわかれて、非現実のドラマの次元のなかで、小春・おさん・治兵衛の三角関係を劇化していった。

唐土がおぎんの懇願を聞き入れたのは、惣助は聟養子であり、勘当されたら二度と家にもどることはない。そうすれば永遠の別れとなるかも知れぬ悲しみを思いやってくれというおぎんの文に感じてであった。しかも、世のつねの嫉妬ではないとして添えられた誓紙がつよくかの女をうごかした。以後、唐土は、ためになる客を遠ざけるという犠牲をはらって、まったくの義侠心から、惣助に愛想づかしをすることになる。いわば、唐土は一方的におぎん・惣助に恩恵をほどこしたのであり、おぎん・惣助・唐土の三者のあいだには、生身を斬るような相互犠牲もなければ、人間同士の心のふれあいもない。

小春がおさんのたのみを聞き入れたのは、「女はあいみたがい」とかきくどいたおさんのことばにうごかされてであった。ことのとき、おさんは、妻として、自分の夫を誘惑した娼婦としての小春に相対していたのではなく、ひとりの女性として、これもひとりの女性である小春にはたらきかけ、其の心をうごかしたのである。おさんは人妻として、家をまもり、子どもをそだてるための種々の制約下にあった。女性の地位がひくかった封建制度下で、この妻の座はけっして安定した保証の得られる地位ではなかった。しかし、この妻の座も私娼である小春に対するときは、超えがたい高みと権威をもってのぞむことになる。世間的な良識からは指弾されるべきいやしい境遇にいた小春からみて、おさんの座は隔絶した高みにあった。しかも、小春は、子までなしたおさんの夫治兵衛をうばおうとしている弱身もあった。おさんはこの隔絶をいっきょにとびおり、裸の女として、裸の女の小春に対したのである。その事実が小春をとらえた。

おさんの捨て身のはたらきかけが、通じる女で、小春はあった。小春はおさんの文を見るや、ひかれぬ義理あいとして、おさんのたのみを聞き入れた。義理とは、この場合、相務契約的な道徳規範である。もともとそれは、相手への誠意に裏うちされた人間的な責任感であった。小春は自己の命を捨ててこのおさんとの義理に殉じようとした。おさんの必死のはたらきかけにこたえうるだけの心の豊かさの持ち主で、小春もあったのである。

小春とおさんは、女同志の義理によってつよくむすびつけられた。太兵衛が小春を身うけしようとしているとくやしがる治兵衛。治兵衛にとって問題なのは、問屋うちのつきあいで恥をかくことであり、自分の一分(いちぶん)のすたることであった。かれは、事態の深刻さを正しく認識していなかった。ここでも治兵衛は女たちからはるか後方におきざりにされている。しかし、おさんはちがう。おさんは、治兵衛の一言で小春の死をさとった。「ああ悲しや。このひとを殺しては女同志の義理がたたぬ」と言うおさんのせりふは聞くものの肺腑をえぐる。この一言をおさんに言わせたことによって、『心中天の網島』は日本文学史上に永遠の古典としての価値を獲得した。おさんの真情にひきずられて、治兵衛もまた精神的変革を呼びおこされるのである。

女同志の義理は、封建制度下の下積みにあった女性間の連帯感であり、しかも、自己犠牲を通してしか実現しえぬものであった。小春はおさんへの女同志の義理をはたそうとしたとき、最愛の治兵衛と手を切って自殺を覚悟しなければならず、おさんは、妻の座をすべりおちて、乳母かままたきにならねばならなかった。『心中天の網島』が、このおさん・小春の女同志の義理の追求のみにとどまり、治兵衛が小春の身うけに出るところで終わっていたにしても、同趣向の『傾城禁短気』などをはるかにぬいた、さわやかな感動を呼ぶドラマとなりえたはずである。しかし、近松は、さらに深刻な結末を用意していた。この人間的な女同志の義理がむざんにもうちくだかれ、ひとびとのいっさいの努力や願望が無に帰す結末がまちかまえていた。それはとりもなおさず悲劇への道であった。

 (書き写しオワリ)







 

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心中天網島 先例作と起請文
愛と死の伝承 -近世恋愛譚- 諏訪春雄 角川選書10 昭和43年12月発行 p240〜書き写し


 至高の愛

前掲のあみ笠頭巾姿の武士が、実は、弟の身を心配するあまり、小春の心底をさぐりにきた兄の孫右衛門であったという正体あらわしの場面である。

この孫右衛門の扮装は、すなおな脚色をほどこした本作のなかにあって、唯一といってもよいケレン味のある演出であり、演じ方によっては、ドタバタにおちかねない危険がある。しかし、この町人が武士に扮するという演出は、歌舞伎や操り浄瑠璃に先例があり、近松はそれを借りたと見られるふしがある。

歌舞伎の方では、元禄十六年(1703)の京都万太夫座で上演された世話狂言『河原心中』の第一場但馬屋(たじまや)久右衛門宅の場面で、久右衛門のむすめお夏の結婚を邪魔しようとして、かねてからお夏といいかわしている情人清十郎が、町の用人又兵衛というものをたのみ、西国大名の家匠と名のらせて、久右衛門宅にのりこませる例などが思い出される。

操りの方では、紀海音の『梅田心中』に先蹤(せんしょう)がある。正徳年中(1711〜16)に曾根崎新地芝居で上演されたこの作は、近松の『心中天の網島』と密接な関係があり、のちにもまたふれるところがあるが、町人が武士に扮する河庄の場面の趣向でも近松作に先立っている。

播州(兵庫県)飾磨(しかま)の出身弥市郎は、大坂老松町に飾磨津屋というふとん夜具類の貸物屋(かしものや)を渡世としていたが、曾根崎新地万屋のかかえお高とふかいなじみとなっていた。さて、中巻、曾根崎新地明石屋の場面で、親方にせかれて弥市郎とのあう手段の絶えたお高は、気のきく粋人の明石屋内儀おつげにたのみ、神崎屋の茂助という百姓を侍にしたてさせ、親方夫婦の目をごまかして、弥市郎とあうことに成功する。

この『梅田心中』の明石屋の場面は、この侍扮装の趣向だけでなく、全体のすじのはこびが、『心中天の網島』上巻河庄の場面とかなり深い関係がある。

茂助を客にしたてたお高が、明石屋の座敷で、弥市郎のあらわれるのを待っていると、弥市郎の悪友和泉屋多助というものが来て、弥市郎の悪口を言いちらす。立腹したお高はこれに言いかえし、武士すがたの茂助がおどしの擬勢でこの多助を追いはらう。この多助の役どころは、『心中天の網島』の太兵衛とみてさしつかえないし、武士すがたで多助をやりこめる茂助は、孫右衛門の役の原型とみられる。

このように、『梅田心中』の中巻は、河庄の場面の先蹤の栄誉をになっているが、そのできばえということになると雲泥の差がある。

孫右衛門の扮した侍客の正体が最後まで伏せられているところに河庄の場の大きな興味があるのに対し、『梅田心中』では、はじめから茂助の正体は観客のまえにあかされている。中巻の最初に明石屋のおつげが士気のとれぬ百姓の茂助を侍客に扮装させるおかしみの場面があり、登場人物でも茂助の正体に気がつかないのはおどされて逃げだした多助だけということになっている。以後、この茂助のユーモラスな言動を中心に、中巻前半の舞台は進展していく。後半、弥市郎が登場して、お高とのあいだにかわされるしっとしした愁嘆の言辞と対照させようとする海音のねらいと思われるが、結果はかならずしもその期待どおりにいかず、前半のドタバタ劇的舞台はこびの雰囲気は、後半部の愁嘆場面と木に竹をついだ違和感を生んでいる。

こうした先例によりながら、河庄の場面での孫右衛門の扮装は、小春の心をさぐって、その意外な告白を導きだし、事件の進展をはかる重要な役割をはたしている。孫右衛門のせりふにあるように、小春の心底を見とどけ、そのうえでひと工夫して、事態の収拾をはかろうとする重大な意味を持ったもので、単に、弥市郎とあうための手段とされた茂助の扮装とは大きな相違があった。身分的にも上層の武士の、したがって、太兵衛とはちがって、直接に治兵衛と今後交渉があろうとも思われない客の親身にあふれた問いかけに小春も心をゆるし、「死にともないのが第一」という重要な告白をし、立ち聞く治兵衛を愕然とさせることになる。小春はこの武士客によって、自分のおかれている困難な状況をきりぬけようと覚悟したのである。

(中略)

この小春の相手治兵衛は、女性への誠実さと、恋の衝動のつよさ、激情においてのみ小春にふさわしい男であった。日常、小春とあいつづけているかぎり、小春とつりあいのとれたかけがえのない恋人であったであろうが、いま、小春が、精神的に、いわば非日常の次元に達した段階では、もはや、ふたりのあいだに落差がひろがるばかりであった。治兵衛にとって、小春の態度は、理解を絶した変心ととれ、治兵衛は激怒する。いっきょにその断絶をうめようとして、治兵衛は相手を殺そうとした。

そして、この行為に失敗した治兵衛は、月のはじめに一枚ずつとりかわした起請文(きしょうもん)を投げかえし、小春からも自分の分をとりかえした。

起請は誓紙(誓詞)ともいい、神仏にちかいをたて、たがいの愛情の不変を約束した誓文で、前書と神文の両部分からなるのが普通であった。前書は誓紙の内容をしるした部分で、この部分には奉書紙をもちい、神仏を勧請して前書の事項に違背しないむねをちかった神文は、この前書の用紙に左まえとなるようにはり継ぐのが定法であった。この神文の用紙だけは、鎌倉時代ごろから、神社・仏寺から発行する護符の一種である牛王(ごおう)法印の裏面をもちいることが多くなり、近世には、紀州の熊野神社発行の牛王法印に限定されるようになった。この熊野牛宝印は、紙面に梵字を七十五羽のからすのかたちであらわし、これを烏点(うてん)と称した。からすは熊野神社の神使とされていたからである。

この牛王札は御師(おし)や先達(せんだち)、熊野の勧進比丘尼らによって全国的に売りひろめられていたので、どこでも楽に手にはいった。それだけに、起請・誓紙の濫発をさけるためか、起請文を書くたびに、熊野神社のからすが三羽ずつ死ぬという俗信があった。明和ごろ(1764〜72)の川柳に、
 熊野では今日も落ちたと埋めてやり
というのがある。『心中天の網島』の下巻で、心中の道行きにでた小春治兵衛のふたりの対話のなかに、
 ---のうあれをお聞き。ふたりを冥途へむかいのからす。牛王のうらに誓紙一枚書くたびに、熊野のからすがお山にて三羽ずつ死ぬと、むかしからいい伝えているが、ふたりが月のはじめに書いた誓紙のかずかず、そのたびに殺したからすは何匹になろうか---

さて、小春の返した起請のなかにまじっていた一通の女文。なぞはこのおさんの文に秘められて、物語は上巻から中巻へと展開していく。






 

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心中天網島 小春、治兵衛、太兵衛の身分すなわち経済事情

愛と死の伝承 -近世恋愛譚- 諏訪春雄 角川選書10 昭和43年12月発行

p229〜書き写し


 私娼小春
大坂曾根崎新地の遊廓が開発されたのは宝永四年(1707)のことといわれている。それより二年まえの宝永二年に大坂の富豪淀屋の闕所(けっしょ)事件がおこり、それをきっかけとして、米市場が、堂島新地にうつったため、堂島新地の色里は北へのぼって蜆川の川すじに集まった。蜆川をなかにはさんで西側に色里がさかえることになったが、北岸は曾根崎新地と呼ばれ、宝永五年には、曾根崎一丁目から三丁目までの町わりもきめられた。前節に出てくる河庄はこの曾根崎新地一丁目にあった色茶屋である。

この曾根崎新地を舞台に遊女小春と紙屋治兵衛の心中事件がおこったのは、享保五年(1720)の十月のことであった。近松はこれを劇化して『心中天の網島』と題して、同年十二月六日初日で道頓堀竹本座の操り浄瑠璃の舞台にかけた。小春治兵衛の心中事件は、この近松作一作によって不滅の価値をあたえられて後世に伝えられた。前節で紹介した部分は、その『心中天の網島』上巻前半の舞台はこびである。

女主人公の小春は、曽根崎新地紀伊国屋かかえの遊女であった。『心中天の網島』の本文にもあるように、「南のふろのゆかた」をぬいで、この曾根崎新地にやってきた女であった。南とは、大坂の島の内や道頓堀に発達した遊里の繁華街をさしている。この辺には、柳風呂、額風呂、蠟燭風呂、丁子風呂などと呼ばれる多くの風呂屋があって、湯女(ゆな・風呂屋女・呂州)をおいて色をひさいでいた。これに対して、入浴を専門とするものを湯屋といって区別した。

大坂の風呂屋女は、各地の風呂屋女のなかでも格式が高く、風呂屋といっても名のみで、風呂をたくことはまったくなく、遊女の位は最高位の太夫につぐ天神相当の扱いをうけた。普通の客ではあがることもむつかしく、一日単位で買うことはできず、正月も前年の十一月ごろから予約して、二月の十五日の涅槃会までつづいて買いきりにしなければならなかった。

小春はこの風呂屋女から事情あって、曾根崎新地にかわった女であった。のちに小春は、南のもとのかかえぬしと曾根崎新地のかかえぬしとにあわせてまだ五年の年季がのこっていると述懐し、南の辺にひとりの母が小春をたのみに賃仕事をして裏屋ずまいをしているとのべているので、いずれ金銭の必要なことがあって鞍替をしたものとみられる。

この小春の身分については、中巻に、「曾根崎の茶屋紀伊国屋の小春といふ白人」とあり、また「茶屋者」ともある。

白人は、泊人、拍人、素人などとも書き、『五箇の津余情男(ごかのつよせいおとこ・元禄十五年・1702)という浮世草子に、
 いつのころより素人(はくじん)と名付けて、傾城にもあらず茶屋女にしもあらぬ遊女の出来(いでき)ぬ。白人(しろうと)といふを、すぐに用ひて白人(はくじん)と云ふ。
と説明するように、京や大坂の場末の貧乏人のむすめが、顔やすがたを美しくつくり、損料の借り衣裳で、遊び宿に出入りして、客をとったのにはじまり、のちには専門の遊女になってしまったのをいう。一方、茶屋者は茶屋女ともいう。この茶屋は、普通の水茶屋に対する色茶屋と呼ばれるもので、茶屋女をおいて売春させることを業とした。この茶屋者、白人、呂州など、ともに私娼であったが、そのあいだには明確な区別があった。

しかるに、『心中天の網島』の刊行された享保のころになると、ともに私娼ということで、茶屋女と白人は混同されていたようである。小春は白人と呼ばれ、また、茶屋女ともいわれている。宝永八年(1711)に出た江島基磧(えじまきせき)の浮世草子『傾城禁短気(けいせいきんたんき)』につぎのようにその間の事情がのべられている。

元来、白人というのは、遊びの道をきわめた大尽客が、玄人の遊女にあきて、町の素人女をもとめたところからはじまった。ところが、この白人たちがすっかり専門化してしまって、そうした大尽客たちの失望をかうようになると、色茶屋では新手を考えだし、かかえの茶屋女とは別に、養子むすめと称して、素人むすめをかかえ、ひそかに客をとらせるようになった。

この基蹟の作品に見るように色茶屋が白人風を売りものとする白人をおき、一方、本来の白人も密会場所として茶屋を利用した。こうして、白人と茶屋者の区別がつかなくなり、茶屋者は白人と呼ばれるようになる。小春が、むかえをうけて方々の座敷へ出ているのは、本来、かの女が白人であったことを示すが、同時に茶屋者ともよばれていたのは右のような事情による。

治兵衛は、太兵衛の悪口にもあるように、天満御前町(おまえまち)の紙屋の主人で、女房おさんとはいとこ同士、夫婦のなかには勘太郎、お末というふたりの子まであった。六十日ごとの問屋への勘定にも追われる身で、高額の身代金を出して小春を身うけすることなど、思いもよらず、かりにうけだしたところで、女房子どものある身で小春とそいとげることは不可能であった。

白人が客とあうのに、一日または一夜の約束をするのを「揚げ」とか「約束」といった。これに対して一定時間あうのを「切り買い」とか「一座買い」といった。時間が終わってむかえがきても、女を帰さずにあいつづけるのを「詰め」という。一座の時間は昼夜それぞれに相違があり、短くて二時間、長くて五時間ほどにおよんだ。「揚げ」や「約束」には、わりびきがおこなわれ、一昼夜の揚げづめは六座に計算し、昼または夜だけの約束は三座と計算された。

一座の代金は『傾城禁短気』によれば、京都では十二匁(もんめ)九分(ぶ)、大坂では七匁であった。享保五年ごろの米一石の代金が銀にして六十匁前後であったから、一匁は現在(昭和四十三年)の貨幣に換算すると、三百二十円ほどになり、大坂で白人を一夜揚げづめすると、揚げ代だけで七千円ほどかかったことになる。治兵衛の身代でまったく手のとどかぬ額でないが、それにしても、あいつづけるには相当無理もかさねたことであったろう。まして、十貫目ちかいかね(これは太兵衛が大げさにいったもので、実際には六貫目ほどであったことが中巻に見える)を出して、小春を身うけすることは、治兵衛には困難であったろう。六貫目は現在の金額で二百万円ほどになる。

この治兵衛のライバルの太兵衛は伊丹の出身であった。伊丹は伊丹銘酒の産地として資産家が多かった。しかも太兵衛は身すがらとあだ名された係累なしの独身者である。この太兵衛と小春をあらそうのであるから、治兵衛も必要以上の虚勢を張ることがあったのであろう。

太兵衛が誇らしげに自慢する新銀とは、享保三年(1718)十一月から流通するように命令の出た良質の享保銀で、それまで通用していた四宝銀の四倍の交換価値を持っていた。「金銀こそが町人の氏系図」といわれたこの時代に、新銀をうなるほど持っていた太兵衛の意気当たるべからざるものがあるのはうなずける。

小春と治兵衛との恋が成立する基盤ははじめからなかった。治兵衛は小春を一時のたわむれの相手をする商売女とわりきり、小春もまた、かよってくる多勢の客のひとりと治兵衛を考えれば、ふたりが死に追いつめられることもなかったのである。それが当時の健全なる良識というものであり、ふたりのなかをさこうとするかかえぬしはその良識を代表している。独身の金持ちという点で、太兵衛こそは、小春にとって、治兵衛に数等まさるよい客であった。

しかし、小春は、商売女としての限界をこえて、治兵衛をひとりの男性として愛そうとした。当時の世間の良識をやぶろうとした。悲劇はそこにはじまった。

この小春の形象の生々たること、注目してよい。はなやかななかに、どこか影をもった登場のしかたからして、小春の今後の運命を象徴して印象的であるが、朋輩の遊女や河内屋の内儀とのせりふのやりとりはなかなかウィットに富んだもので、かの女の並々ならぬ才気を示している。しかも、その才気が一貫して太兵衛に対する嫌悪の情を表現して、言外に治兵衛への思慕の情を表白している点も注意される。

太兵衛に対して気強く張りあう小春も、その緊張がとけると死を考えて涙ぐむ女とかわる。やさしさとしゃんとした張り、心情の涙ぐましさと精神の剛毅さをあわせ持った女。一般人にきらわれる賤業の女、私娼小春をこのように形象化した近松とはどのようなひとであったのだろうか。治兵衛はこの小春にふさわしい男性であったのか。

もうすこし舞台の展開を追ってみよう。(後略)







 


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国性爺合戦 登場人物
『国性爺合戦』(こくせんやかっせん)は、近松門左衛門作の人形浄瑠璃。のちに歌舞伎化された。全五段。

正徳5年(1715年)、大坂の竹本座で初演。江戸時代初期、中国人を父に、日本人を母に持ち、台湾を拠点に明朝の復興運動を行った鄭成功(国性爺、史実は国姓爺)を題材にとり、これを脚色。結末を含め、史実とは異なる展開となっている。和藤内(鄭成功)が異母姉の夫・甘輝との同盟を結ぶ「甘輝館」が有名。初演から17ヶ月続演の記録を打ち立てた。

正徳4年9月(1714年10月)、竹本座の竹本義太夫が没し、遺言により、24歳の弟子・竹本政太夫が後を継いだ。しかし多くの年配者を差し置いてのことだったため、反発があった。そこで長老の近松門左衛門と、座長の竹田出雲は、政太夫の長所である声を活かしたこの作品を完成させる。当初は史実通り『国姓爺合戦』であったが、話は創作であるため、「姓」を「性」と変え『国性爺合戦』に直したという。

隣国である中国に題材を求めたことや、中国人と日本人の混血である主人公は、鎖国下において非常に人気を集め、結果的に3年越し17ヶ月続演という記録を打ち立てた。また歌舞伎化のほか、読本としても出版された。

この人気を受けて、近松は後日狂言として『国性爺後日合戦』『唐船噺今国性爺』を書いたが、いずれも前作の人気には及ばなかった。

現在は、歌舞伎・文楽ともに二段目の「千里が竹」と三段目がよく上演される。歌舞伎では錦祥女の流した血が川に流れる場面を「紅流し」と呼び、国性爺が「南無三! 紅が流れた!」と被っていた笠を脱ぎ捨て、石橋の上で大見得を切るという荒事風の演出が名高く、市川團十郎代々のお家芸となっている。また、獅子が城での国性爺と甘輝との対決は両者とも座頭級の俳優が共演して火花を散らすのが見どころである。

 wikipediaより



 錦祥女 きんしょうじょ
明国の忠臣鄭芝龍(ていしりゅう)の娘で、主人公の和藤内とは母を異にする姉。父が日本に渡った後、獅子が城城主甘輝の妻となる。明国再興のため甘輝を味方につけようと、日本から訪ねてきた和藤内親子と獅子が城の楼門越しに対面、幼いころ別れた父との再会を果たす。錦祥女は、縄つきで一人城中に入った継母を、孝心を尽して持て成す。帰館した夫甘輝は、和藤内の願いを容れるため妻を殺そうとするが、継母は錦祥女を必死にかばう。錦祥女は、夫の説得に成功すれば白粉(おしろい)を、失敗すれば紅(べに)を川に流すという。化粧殿(けわいでん)に一人上がった錦祥女は、胸を突いて血潮の紅を泉水に流し不首尾の合図を門外の和藤内に送る。妻の、命を捨てての説得に感じた甘輝は、明国の再興を誓い和藤内とともに挙兵する。

『国性爺合戦』は十七世紀中葉、明国の復興を企てた、鄭成功(ていせいこう:1624〜62)という中国人の父と日本人の母をもつ実在の武将をモデルにした物語。錦祥女の夫甘輝は実在の清朝の家臣の名を借りたと言われるが、妻錦祥女は作者近松門左衛門の創作した人物。

獅子が城の場で、行き別れた父と楼門越しに対面するところが錦祥女の見せ場、柄付きの鏡に父の顔を映しポーズをとる。錦祥女は美麗な唐人の衣裳で登場。カラの毛丸髱で勝山風の唐女。金の鳳凰と瓔珞(ようらく)を付け、唐団扇と唐の薙刀を持つ。甘輝館の場は唐衣裳、好みの扮装。

鄭成功の事跡は『明清闘記』(1661年序)によって日本に知られ、正徳五年(1715)近松が浄瑠璃に作って初演し好評を得、その後歌舞伎でも二段目三段目を中心にしばしば上演されてきた。


 五常軍甘輝 ごじょうぐんかんき
錦祥女の夫。獅子が城の城主。明敏にして勇力に富む五常軍の将軍。明国の臣であったが今は韃靼の支配下にある。義弟和藤内の味方になることを初めは拒むが、妻の死を賭しての説得に感じ、和藤内の味方となり明国再興のために挙兵する。

甘輝は実在の清朝の家臣から名のみを借り、近松が創作した人物。歌舞伎では本実方の役柄とされ、座頭級の役者が勤める。甘輝館の場で、主人公和藤内と激しく対立しての上下の見得は、関羽見得と呼ばれる。美麗な唐衣裳、唐人髭で軍配を持つ。


 小むつ
主人公和藤内の妻。肥前平戸の浜で夫が唐土渡来を決意する場に出て、老一官、和藤内とだんまりの所作、三方一時(いっとき)の見得をする。衣裳は着流し、前帯、片褄端折り、手拭を口にくわえ吹き流しにしている。原作の浄瑠璃では四段目に活躍するが、歌舞伎では見栄えのするこの場のみの出演。


 三河良 さんがろう
獅子が城楼門の場に、珍沢山とともに登場する道化役。極寒の楼門見回り中、酒と肴を出し、おどけたせりふを交す唐人の兵士。


 渚 なぎさ (文楽では名はない)
主人公和藤内の母。老一官の妻。夫、息子とともに唐土に渡る。継子の錦祥女を命がけで守り、生さぬ仲の娘に義理を尽そうとする。「口にくわえて唐猫の」という浄瑠璃にのり、夫に殺されようとする錦祥女を、縛られたまま口を使って守る所作が、初演以来演技の見せ場。衣裳は茶紬の小紋、鬘は胡麻の帽子付き丸髷。近松門左衛門の原作に名はないが、歌舞伎では「渚」という名を与える。肥前の国田川氏の娘で老一官の妻となった日本人女性を、一応のモデルとして指摘できるが、ほとんどは近松の創作。


 老一官 ろういっかん
明国の忠臣鄭芝龍は日本へわたり老一官と名のる。日本人妻との間に儲けた子が主人公の和藤内。息子、妻とともに唐土に帰り、明国の再興を計る。幼いころ別れた娘錦祥女と獅子が城門外で対面する。

老一官は実在の人物で、福建省泉州の出身、慶長十七年(1612)年平戸に渡り密貿易などに従事、明・清の争乱に関わる。清の軍門に下ったが、息子鄭成功はこれに従わず、父と子は敵味方に分かれたという史実が報告されている。老一官の衣裳は鼠の唐服、頭は白髪の唐人髷、白(はく)の付け眉毛に髭。


 和藤内 わとうない
明国の忠臣鄭芝龍と日本人の母の間に生まれた和藤内は、勇力無双の若者。韃靼に滅ぼされた明国を再興するため唐土に渡り、千里が竹で虎を退治し韃靼の兵を従える。腹違いの姉錦祥女の夫甘輝を味方に頼むため、父母とともに獅子が城に赴く。錦祥女からの合図の紅を、城外の橋の上から見て、甘輝が意に従わないと知った和藤内は、城中に暴れ込み甘輝と対決する。錦祥女と老母の、身命をかけた説得に感じた甘輝は、和藤内に味方することを約し、彼に「国姓爺」の名を送る。和藤内と甘輝は明国の再興を誓い挙兵する。

十七世紀中葉、清国の復興を企てた鄭成功(ていせいこう:1624〜62)という実在の武将をモデルにしている。鄭成功の父は来日し、肥前の国で日本人女性との間に福松という子をなした。これがのちの鄭成功である。彼は七歳のとき中国に渡り、長じて明国の復興に奔走、中国沿海の各地を拠点として南京への侵攻を試みるが、志なかば三十九歳で没した。明国の国姓「朱」を賜ったので、国姓を受けた者の意で「国姓爺」と呼称される。

和藤内は荒事の典型的な役柄で、元禄見得、片手飛び六方など見せ場が多く、また「押戻」の原型があるともされる。「紅流し」の場で橋上から下を見込み「南無三、紅が流るる」のせいふにはさまざまな口伝がある。このときの扮装は碇綱を染め出した厚綿の着付け、鋲打ちの胴丸、化粧簑を着て右手に竹の子笠、左手に松明。顔は前場の一本隈から、より強い筋隈へと変化している。「国姓爺」を名のってからは唐装束、瓔珞(ようらく)付き日月(じつげつ)の唐冠、唐団扇を持つ。

国政や鄭成功の活躍は、寛文元年(1661)序の『明清闘記』によって日本に知られ、近松門左衛門が浄瑠璃の作品として正徳五年(1715)に初演。これは大当りして、その後二段目三段目を中心に歌舞伎でもしばしば上演されてきた。また近松の『国性爺合戦』には、謡曲『龍虎』からの影響が指摘されている。


 歌舞伎登場人物事典より





 

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