妄想オムライス
床下は骨伝導 ワ((゚゚дд゚゚ ))ワワ !!!!!



芭蕉終焉の地

「此付近芭蕉翁終焉ノ地ト伝フ」

側面には「昭和九年三月建立 大阪市」とある。


南御堂(難波別院・御堂会館)前のグリーンベルト上にある。

御堂筋の花屋仁左衛門の貸座敷があった所、ということだろう。

  ↓

 死去

元禄7年5月、芭蕉は寿貞尼の息子である次郎兵衛を連れて江戸を発ち、伊賀上野へ向かった。途中大井川の増水で島田に足止めを食らったが、5月28日には到着した。その後湖南や京都へ行き、7月には伊賀上野へ戻った。

9月に奈良そして生駒暗峠を経て大坂へ赴いた。大坂行きの目的は、門人の之道と珍碩の二人が不仲となり、その間を取り持つためだった。当初は若い珍碩の家に留まり諭したが、彼は受け入れず失踪してしまった。この心労が健康に障ったとも言われ、体調を崩した芭蕉は之道の家に移ったものの10日夜に発熱と頭痛を訴えた。

20日には回復して俳席にも現れたが、29日夜に下痢が酷くなって伏し、容態は悪化の一途を辿った。

10月5日に御堂筋の花屋仁左衛門の貸座敷に移り、門人たちの看病を受けた。8日、「病中吟」と称して

 「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」

を詠んだ。この句が事実上最後の俳諧となるが、病の床で芭蕉は推敲し「なほかけ廻る夢心」や「枯野を廻るゆめ心」とすべきかと思案した。

10日には遺書を書いた。そして12日申の刻(午前4時頃)、松尾芭蕉は息を引き取った。

13日、遺骸は陸路で近江(滋賀県)の義仲寺に運ばれ、翌日には遺言に従って木曾義仲の墓の隣に葬られた。焼香に駆けつけた門人は80名、300余名が会葬に来たという。


   松尾芭蕉wikipedia より



地下鉄御堂筋線「本町駅」12番出口から南へひとつめの角の辺り。








 

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篠田(信太)王子跡
旧府神社を出て、



左へ歩くと、 (写真は神社の向かい側から撮っている)

程なくして、


ジャンジャジャーン、


小栗街道(熊野街道)に突き当たる。やった!初小栗街道! これを右へ。

感動だ!なんてったって小栗街道だ!小栗街道歩いてるだ!


中央寺の前を通って、



交差点の左手に現れる大きな鳥居を横目で確認しつつ真っ直ぐ信号を渡ると、



建物の壁の下に道案内の小さな看板があるはず。あった!


矢印に従い左へ坂を上ると、


防犯の注意喚起を掲げる民家の、

右の白い柵のところが、


篠田(信太)王子跡。 クリックで説明拡大


篠田(信太)王子跡

平安時代の後半頃から流行した浄土信仰は、紀州・熊野こそ十万浄土の聖なる地。
現世極楽の聖地であるという「熊野信仰」に発展し、現世極楽の地にあこがれ、
一切の罪業消滅を願う皇族や貴族たちがこぞって熊野の地を目指すようになりました。

延喜七年(907)宇多法皇の御幸にはじまった熊野詣は、貴族の次に武士層に、南北朝以降は
畿内の庶民層へ広がっていき、「蟻の熊野詣」と称されるほどに大勢の参詣人が熊野をめざして
続いたと伝えられています。この熊野への参詣の道が熊野街道です。

京都から淀川を船で下り、大坂天満の渡辺の津に上陸し、そこから摂津国の天王寺、住吉を経て、
和泉国を通過して紀伊国へと、陸路を南へ八十里、往復およそ一ヶ月のみちのりでした。
和泉市内では、信太山丘陵の裾を現在のJR阪和線とほぼ並行して通っています。

熊野街道筋の要所要所に、遙拝所、休憩所として設けられたのが、熊野権現の末社である
”王子社”で、数が多いことから”熊野九十九王子”と呼ばれています。
和泉市内では、篠田(信太)、平松、井口(茶井)の三王子がありました。

後鳥羽院の熊野詣に随行した藤原定家の記録によると、一行はここ篠田(信太)王子で禊ぎの後、
信太明神に参拝しています。

ここには、もとは熊野権現が祀られていましたが、明治四十二年(1902)に葛葉稲荷に
合祀されました。王子町の地名は、ここに篠田王子があったことに由来するものです。

なお、熊野街道は、説教節の一つとして名高い「小栗判官」で、熊野参詣のため土車に乗った
小栗判官が照手姫に引かれてこの道を通ったことに因んで、「小栗街道」ともよばれています。

 平成十六年  和泉市教育委員会



空地の隅っこにひっそりと佇む篠田王子。

熊野を目指す参詣人がここで足を休め憩ったのね。


あたしゃ松と石のある公園を目指します。






 熊野街道wikipedia

 小栗判官wikipedia








 

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奴塚
再び新大坂之図(明暦3年)。先日検証した「七不思議の栴檀」から、
「さかいかいたう(堺街道)」を挟んで西に千日が見える。


新大坂之図より  ←北 南→



その「せんにち(千日)」に、盛土の上に植栽を施したランドマークがあり、

「やつこつか」と書いてある。


「やつこつか」すなわち「奴塚」かな。
「奴塚」で検索すると「摂陽奇観」に記述があった。


浪速叢書「摂陽奇観http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020289
コマ201

 奴塚
先年大坂城中に喧嘩ありて奴共五六十人も殺害なし道頓堀の墓に塚一ツ穴築込メ奴塚といふ寛文改正の大坂の図に見えたれ共今はなし



「奴・やっこ」とは武家奉公人の中間のことで、中間とはお侍の下っ端のことをいうらしい。お城の若いもんが喧嘩して5、60人も死んだだなんて、どんな大騒動?それも纏めて十把一絡げに千日に葬るとは、奴に故郷も実家もないのだろうか。一度武家に奉公したら安定したお給料は貰えるかもしれないが、コマのひとつに過ぎなくなるのだろうか。かといって江戸時代に戦は無し、お城で暇とエネルギーを持て余し、ってところだったのかな。毎日何をしていたんだろう。

コマといえば、急に今の安倍自民党時代のはなしになるんだけど、

もし死亡消費税が導入された場合、家族の誰かが死んだら残った家族が消費税を払うのよね。じゃあ仮に戦争勃発して兵隊が戦死しても国は兵士の家族から死亡消費税を徴収できるわけで、国民=コマを失っても国は丸損はしないで済むのよね。うまくできてるわ〜誰が考えたのかしら。妻や母は夫や息子が戦争に行って死んだら国に税金を納めるわけよね。夫と息子を戦地で死なせて戴きありがとうございます、よくぞ殺して下さいました。名誉を与えて下さったお礼のしるしにお国にお金を納めますってね。先の大戦でも死亡消費税を導入してたら国は儲かったのにね。戦地の兵士は見捨ててほっとけば勝手に餓死するし、本土空襲に原爆投下で女子供年寄りもいっぱい死んだもんね。日本人に生まれてよかったわ?いや〜もう結婚もしたくないし子供を産むのもいやだわ。若くて独身だったらそう思うわ。






 

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七不思議の栴檀

明暦三年(1657)新大坂之図   ←北 南→

を眺めていると、


近頃ちっとは字が読めるようになったもんで、 

「七ふしぎのせんだん」て何だろう?などと疑問を抱くようになる。
読めなければスルーで済んだものを。


土佐堀川に「栴檀の木橋」が架かっており、

今も橋筋に栴檀の木が生えているそうなのだけど、
どうやらその昔、千日前にも栴檀の木があったようなのだ。


「七不思議の栴檀」を検索したら文献があった。


新燕石十種・巻ニ より 
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088295/175?viewMode

七不思議の栴檀 (194コマ上段)
浪速旧図に、七不思議の栴檀とて大樹を畫(描)く、其地は三津浜より東南にして、紀伊国に通うの官道の傍らなり、是を予先年より捜索せるに、方今新金比羅神社と称す、讃州金比羅神社の教会所の東、日本橋すぢより一丁ばかり西、人家稠密(ちゅうみつ)なる中にいささか空地ありて、樗(おうち)の古木見上る程のもの三株ばかり有り、此地旧図の七不思議栴檀を描く所にあたれり、然れば此古木図中に記せるもの歟(か・疑問を表す助辞)、又これは別のものなる歟、問うに知る人なければ定めがたし、又船場の北にて栴檀木筋の名あり、又近年まで此筋の北土佐堀川に、栴檀木橋と號る橋あり、是等の名も皆いにしへの栴檀の木によりて、名づくるものかと覚ゆ、右に記せる栴檀の古木ある地より、北方に向い行けば、道頓堀の相合橋の南詰に出で、其北方は長掘の中橋すぢなり、今は栴檀木筋(三休橋筋と南にて云)とは、一すぢ東にあたれど、市中の道路昔のことはかられず、町筋の名橋の名も是によりて名づけしならんか、



以上。
「七不思議の栴檀」の木があった場所を検証しているばかりで、
これを読む限りでは肝心の「七不思議」の由縁は不明。
「新燕石十種」は明治末期から大正時代にかけて出版された書籍であるが、
残念ながらこれが書かれた時点で、すでに千日の栴檀の木は失われていたのだ。
なんだ。がっかりぽん。
「七不思議の栴檀」について、江戸時代の記録があればいいのにな。
試しに栴檀の木橋筋を南に真っ直ぐ辿ってみると記述通り太左衛門橋筋に通じている。



追記:また、摂津名所圖會大成巻之八に、

 七奇異楝(ななふしぎのせんだん)
事実詳らかならず 寛文元年辛丑六月改正の大坂の図にあり 頗る大樹の形勢(ありさま)なり その場所は凡そ今の高津新地末廣橋の辺りと見えたり その跡の詳らかならざるは延享元日甲子年高津新地開発の砌(みぎり)に絶えたるか 又新地川開削の時絶えたるやしらず

 古図に出でて最(いと)高き木なり

俗に楝(おうち)をさして栴檀と称(よ)べり 栴檀は香木にして真檀・白檀・紫檀・黄檀・赤栴檀等の種類ありて 楝の如き木にはあらず この七奇異のせんだんといえるも即ち楝の事なり この木その長ずること甚だ速く 三十五年にして高く長ずるもの也


とあって、やはり「不思議」については触れていない。



以上を踏まえて「七不思議の栴檀」があった場所を推定すると、

「新燕石十種」の言う「新金毘羅の東、日本橋筋の一丁西の辺り」に従えば、
  相合橋筋を千日前通りを越して南下した、なんば花月の裏辺りになろうし、

「新大坂之図」や、「新燕石十種」の冒頭「浪速旧図」の記述を現代地図に照らせば、
  今の千日前通り上、文楽劇場の西北、角のたばこ屋さんの前辺り、と想像できる。

「摂津名所圖會大成」は末広橋の辺りと言っている。新地川(高津入堀川)開削は
  wikipediaによれば享保19年。



だとすれば夏祭浪花鑑の泥池の推定位置に近くて興味深いのだ。=新金毘羅宮のあった場所


また、信長の石山本願寺攻めにあたり高津に忍者軍団を配置していた様子が「石山古城図」に
見られると「近世絵図地図資料集成第7巻」の案内にあり、wikipedia石山本願寺を見ると、
「石山合戦図」という絵図が閲覧でき、そこには確かに高津の「七不思議の栴檀」付近に
「雑賀衆」陣地が配置されている。


石山合戦図より ←北 南→ 

中央「七不思議センダン」の左、川沿いの赤四角内に「北州雑賀其外一味之陣」
と読める。「北州」は曖昧だけど「雑賀其外一味之陣」ははっきりとそう読める。
この図だと栴檀の木は堺筋の東にあり、堺筋を挟んで西に大きな沼があるのも
やはり泥池っぽくて興味深い。


おもしろいなぁ。


ああしかし何が不思議なのだろう???それに七不思議というのは、
栴檀の木に七つの不思議が纏わるのか、それとも大坂にあと六つの不思議が残されているのか、
いずれにしても木だけに気になるなぁ〜〜お粗末。

追記:阿倍野の松虫塚に「七不思議の神木」があるが、これの不思議についても不明。
   大阪には名木が多々存在したようなので、「七不思議」は木シリーズだったかも。






 

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大阪七福神

三光神社境内にあった「大阪七福神めぐり」案内図。

この順路に則れば一日で巡ることができる!すばらしい!




2011年4月 四天王寺 布袋尊



四天王寺には大黒さんもいるけど大阪七福神ではないのだ。


2013年1月 今宮戎神社 えびす大神



2013年6月 毘沙門天大乗坊 毘沙門天



2014年4月 長久寺 福禄寿



2015年1月 大国主神社 大黒天



2016年1月 三光神社 寿老人



2016年1月 法案寺 弁財天

三光神社で「大阪七福神」を知り、法案寺にお参りしてコンプリート!と思ったら、
肝心の弁天さんを拝んでなかった。バカじゃないの?
いつの間にか知らずにたまたま巡っていただけのはなしだし、
ホントは真剣にお参りして御朱印を戴かないとね。いけませんね。はい。
てもまあそれぞれ初めて訪れた時の目的と思い出が御朱印帳に代わる宝物かな。







 

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