妄想オムライス
床下は骨伝導 ワ((゚゚дд゚゚ ))ワワ !!!!!



浅草の黙阿弥住居跡
雷門をくぐって、仲見世を真っ直ぐ行き、



この四つ目の角を右に曲がる。



左角にはトヨダヤ靴店があり、このように突当りに浅草公会堂が見える角。


右側の角には手焼せんべい亀屋がある。右に曲がると、


右折したところ。もう見えてる。



仲見世会館の前に、河竹黙阿弥住居跡の碑がござんす。

↑クリックで河竹登志夫さんの書かれた案内板。ちょっと読みにくいね、書き写そう。


黙阿弥と浅草

早稲田大学名誉教授
文学博士 河竹登志夫

歌舞伎作者河竹黙阿弥(1816〜1893)は文化十三年江戸日本橋の商家に生まれ、かぞえてニ十歳のときに五世鶴屋南北に入門、七十八歳で没するまでに三百六十篇にのぼる作品を残した。

天保の改革による江戸三座の猿若町移転に伴ってこの地に移り住んだのは、弘化年間ニ十歳ごろから明治二十年、本所南二葉町いまの墨田区亀沢に隠棲するまでの約四十年間である。宇都谷峠・十六夜清心・三人吉三・弁天小僧・村井長庵・御所の五郎蔵・土蜘・船弁慶・紅葉狩などの代表作をはじめ、ほとんど全作品がここで書かれたのであった。

坪内逍遥は黙阿弥を「真に江戸演劇の大問屋なり・・・一身にして数世紀なり」と評し「日本の沙翁(シェイクスピア)」とも讃えたが、馬道町二丁目十二番地といったこの地が浅草寺院正智院の境内だったので、江戸、東京の市民からは「地内(じない)の師匠」と親しまれたという。

平成二年七月吉日       浅草観光連盟



と案内板には書かれてあります。へええ、「紅葉狩り」を能から書き直したのも黙阿弥だったんだ。国立劇場で文楽のを見たことがあるよ。美女が鬼女に豹変して猛り狂ってエロくて怖かった。毛振りなんかもあって前の方で観たもんだったし、ほんとド迫力だった。あの鬼女に変身する更科姫は清十郎さんだったかな。玉志さんの維成と。エロエロ鬼女とキレキレ維成でノックアウトよ。



堀切直人著「浅草 江戸明治篇」 から、以下抜き書き。p133〜

黙阿弥は夜になると焙烙(ほうろく)頭巾をかぶって一人で浅草の町に出て、路ゆく人たちの風体や会話に耳を傾け、銭湯や居酒屋に入って世態風俗を観察したという。 黙阿弥は安政の大地震のあと、二十年来出勤していた河原崎座から市村座へ転勤し、そこで名人市川小団次と提携して、「白波作者」としての声価を確立する。白波とは、むろん盗賊のことで、黙阿弥は「三人吉三」「白波五人男」「鼠小僧」といった、強盗、巾着切り、ゆすりたかり、義賊、無頼漢、遊び人、毒婦などを作中に登場させる「白波物」を次々と舞台にかけて、好評を博した。

天保期の江戸は、地方から流入するたくさんの没落農民を受け入れていたので、下層民が目立って増大した。当時の江戸の人口の56%は窮民であったという。彼らは裏店住まいで、棒手(ぼて)振りなどでかろうじてその日暮らし生活を送ったが、食いつめれば犯罪に及ばざるをえなかっただろう。江戸市中は無警察状態同然で、盗賊も横行していたが、芝居の内容への幕府の取り締まりでは盗賊ものには規制がゆるやかだったこともあって、「白波物」はお咎めに遭わなかった。そのかわり、天保の改革で幕府から、歌舞伎芝居は勧善懲悪の構成にすべしとのお達しが下ったので、黙阿弥は文化文政期の四世鶴屋南北のように野放図に悪の賛美を行うわけにはいかず、最後は必ず因果応報、勧善懲悪に終わらせる筋立てをとらざるをえなかった。作者にとっては勧善懲悪はあくまで方便であったが、観客もその点は暗黙のうちに了解しつつ芝居を観ていた。






四世市川小団次は幼少の時から上方に役者修業に上り、江戸に戻ってから黙阿弥とコンビを組んで、「陰惨な役や無残な役やあわれな浅ましい不気味な物凄い役・・・つまり底に何等かの深い憂いや、失望や、苦痛や、憤怒や、慙愧や、悔恨を湛え貯えている浮世の薄命者や、敗残者や、逃避者や、凶状持ちや、自暴自棄者など」(吉見広勝)を演じて、名人との声望を得た。小団次がうちに抱えこんでいる泥沼のような暗さが、このような役を黙阿弥に書かせたとも評される。(後略)

(抜き書きオワリ)


東京徘徊録










 

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住吉大社の五大力

歌舞伎「盟三五大切」のキーワードとなる「五大力」。
なんと、住吉大社にその五大力のお守りがあると知り、
仁左衛門の「盟三五大切」に入れ込んでいた当時のあたしは五大力のお守りが
欲しくて欲しくて堪らなくて居ても立ってもいられなくなり、
文楽を見た帰りにすっ飛んで行きましたよ。住吉大社へ。
2011年、大震災直後の4月のこと。


源大夫さんと藤蔵さんの襲名披露公演でありました。

源大夫さんもいつの間にか引退されてしまった。もっと聴きたかった。


初めて女殺油地獄を見て衝撃を受け、

外に出れば容赦なく、


散りかけの桜の花が暴力的に目の中に咲いて茫然自失の脳みそを掻き乱す。


「あたしたちきれいだから見て見て」と無邪気に強要するんですよ。

与兵衛ってあの人形の芝居はなんなんだ
桜がきれいだな
五大力早く欲しい

錯乱状態で住吉さんに辿り着いた。



おじゃまします!



おおお、これがかの有名な住吉さんの赤い反り橋!

足首捻挫しないように渡るのがけっこう大変だった。


鴨が泳いでたよ。



こんにちは!はじめまして!



本宮横の赤門をくぐると、



ありました。

五所御前

第一本宮と若宮八幡宮との間にある、杉樹が石の玉垣の内に立っている場所です。むかし、神功皇后が住吉大神をお祭りするための土地を求められたとき、この杉の木に白サギが3羽きて止まったので、ここへお祭りしたと伝わる聖地です。別名を「高天原 (たかまがはら) 」ともいい、神霊をおむかえするミアレ所でもあります。毎年5月の住吉大社創立記念の祭、卯之葉神事では、卯の葉の玉串がささげられます。

 石の玉垣のなかにある砂利には「五・大・力」と書かれた小石があり、これを集めてお守りにすると心願成就のご利益があります。

 住吉大社 名所旧跡 より


玉垣の間から手を入れて、五・大・力の石を探る。



どれにしようかな

境内の授与所で購入した専用の守り袋に3つの石を忍ばせ、そして身に付けるのです。


返納もこちらで。



バックヤードから。鳥居があるからこっちが正面なのかな?


「盟三五大切」の小万は腕に「五大力」と刺青を入れているのだけど、恋人の三五郎が「三」と「t」を彫り足し「三五大切」にしちゃうのよ。それに気付いた小万のパトロン(?)中年男の源五兵衛が、三五郎が本命でオレは金づるだったんだな!と悟り激怒、小万を切り刻んで嬲り殺しにする。ほんで切り落とした小万の生首を抱いて自宅に持ち帰り御膳に据え、恨み事を話しかけながら晩酌をし茶漬けを喰う、という鬼才ヘンタイ鶴屋南北面目躍如なお話なのであります。


これであたしも小万になれたな。


うちの三五郎はテレビを見ながらビール飲んで鶏ガラだしの鶏鍋にうどんを入れ、
おろし生姜を入れ過ぎて「辛え辛え」と恨み事を騒いでいる。






 


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永代橋

歌舞伎『名月八幡祭』の大詰は深川仲町裏河岸。折しも深川八幡祭の日、永代橋が落ちるのである。その喧騒をよそに、嫉妬から錯乱状態に陥った新助は深川芸者の美代吉を斬り殺す。この凄惨なお芝居で初めて永代橋崩落という大事故が江戸時代に実際にあったことを知った。

文化4年8月のこと。12年ぶりに行われることとなった深川八幡大祭のうわさを聞きつけ、江戸ばかりでなく近隣からも多くの人々が押し寄せた。

大祭の予定は当初8月15日であったが、生憎の雨続きにより順延となり、やっと19日に開催となる。

19日当日、江戸市中から深川へ入るのに一番近い永代橋に、丸3日間も祭りを待たされて焦れきった多くの人々が次から次へと殺到する。そんな状況の中、一橋殿御一行が祭り見物のため深川の下屋敷にお成りになるのに、船で永代橋の下を通るという。お上の船が通る橋の上を庶民が渡るのは畏れ多い。永代橋は逸る人々を両橋詰に綱を張り差し止める形で、一橋家の船が通り過ぎるまでの間、一時通行止めとなった。

左下、赤の矢印で指したのが永代橋。右の赤で四角に囲ったのが一橋家下屋敷。

水色の線で一橋家の船のルートを推測。永代橋をくぐって仙台堀に入る。

雨で3日間も延期になり、いよいよ今日という日になって急遽永代橋の手前で一橋殿のお通り待ちとなる。
橋の向こうからは祭り囃子が誘うように風に乗って聞こえてくる。


一橋殿の船はまだか。橋はまだ通れないのか。まだ?まだ?


よりによって一橋殿御一行を乗せた船は通過予定時刻から大幅に遅れて姿を現したのだった。

ぎっ、ぎっ。ゆっくりと櫓を漕ぎながら、船の列は静かに通り過ぎてゆく。


 さあ、いよいよ橋止めの綱が解放された。


待ち草臥れた人々は一気に永代橋へとなだれ込む。

箱崎方面から殺到する人々の荷重に耐え切れず、永代橋は深川寄りの部分でぼっきりと折れてしまった。

うわーーー!!



落ちた人の上に人が落ち、川底に沈んだ者は浮き上がることができず、最後の方に落ちた人はまったく水に濡れなかったというくらいに、次々と人が折り重なって落ちた。


このときの様子を三遊亭圓生は落語『永代橋』で、

「まるで漏斗の中へ豆が落ちるように」

と言い、杉本苑子は小説『永代橋崩落』で、

「水中花がいっせいに開いたように、川面には派手やかな、さまざまな色彩がぱっと浮き上がった」

と言っている。


『名月八幡祭』の新助は大惨事の喧噪や阿鼻叫喚には無関心のまま美代吉への復讐に固執し、たまたま出くわした美代吉を仲町裏の河岸の小屋の中に追い込み、とうとうそこでばっさりと斬ってしまう。

美代吉殺害事件は、もとになった実話があるにしてもお芝居の中の話。けれど、これと同様、事故に乗じて起きたミステリアスな殺人事件や、助かった者のその経緯など、永代橋崩落事故に巻き込まれた人々の逸話と事故の詳細が、大田南畝の記す『夢の浮橋』で読める。これを読むと杉本苑子の『永代橋崩落』が大田南畝の記録をもとに書かれたものとわかって面白い。『夢の浮橋』は『燕石十種 第四巻』に収録されている。

『夢の浮橋』によれば8月26日時点で、

存命 340人
溺死 440人
助人数 745人
助船 144艘

と町奉行所より老中へ報告されており、また別に、

永代橋水死人732人
 内
武士 86人
町人 424人
女 105人
子供(男女)76人
半死半生之者 200人
死骸引取人これなき者 11人
腰物取残し 236腰
〆て947人
ほかおよそ130人程死骸これなき分

という記録も残されている。

犠牲者の遺体は羽田沖や房総にまで流れ着いたという。


参考:

 燕石十種 第四巻 中央公論社 

目次


劇場新話
江戸真砂六十帖広本
当世武野俗談
藻屑物語
夢の浮橋
江戸節根元由来記
三座家狂言井由来書
中古戯場説


 永代橋崩落 杉本苑子
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目次

風ぐるま
姉と妹
二人の母

椿の墓所
岸和田屋の娘
家訓
砂村心中


 圓生全集 別巻(上) 青蛙房

目次

真田小僧 花筏 穴子でからぬけ 弥次郎 狐つき 寄合酒 首屋 法華長屋 
にせ金 田能久 三味線鳥 無精床 佐々木政談 四宿の屁 てれすこ 鶉衣 
廓の穴 勘定板 音曲小噺 永代橋 芝居風呂 吉住万歳





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鶴屋南北終の棲家 黒船稲荷神社

改めて三角屋敷を確認するべくひと月後に再び訪れた門前仲町交差点を南に月島方面へ行くと

橋のたもとに建つ櫓下タワーが目に入る。


門仲の火の見櫓を再現したもののようだ。

クリックで拡大

櫓の足元の橋は黒船橋といって


大横川を跨ぎ、門前仲町一丁目と牡丹一丁目を繋いでいる。


大横川。


川岸に降りて行くと黒船橋乗船場があり、桜の季節には和舟に乗って花見ができるようだ。


橋を渡ったらすぐに左折、3つ目の小路を右折すると右側に黒船稲荷神社はある。

富岡八幡のお祭が近いので提灯と幟が揚がっていた。

おじゃまします。


御本堂。


小さなお狐さんが質素に祀られている。


ここは大南北終焉の地だという。

クリックで拡大


大南北は下町生まれ下町育ちのバリバリ江戸っ子なんすね。
つまり、大阪に大近松あれば江戸に大南北あり、なわけだ。
なんかやっとひとつわかったような気がする。
近松は大坂ことばで大坂を舞台にした義太夫をいっぱい書き、
南北は江戸ことばで江戸を舞台にした歌舞伎芝居をいっぱいこさえた。
なんてステキなんでしょ!
ヒャッホー!

んで、この説明書きのおかげで
三角屋敷が深川一丁目5番地であることが確認でけたど!





黒船神社ありがとーう!
ほんじゃ三角屋敷に行ってみよー!


四世鶴屋南北終焉の地 黒船稲荷神社


より大きな地図で 東京徘徊録 を表示






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四谷怪談 謎の陽運寺

於岩稲荷田宮神社の斜め向かいに建つ陽運寺でもお岩さんを祀っている。

中央に「於岩霊堂」、左右の提灯に「於岩稲荷」、「陽運寺」の看板は門柱に隠れて見えない。

おじゃましてみますと、中はテーマパークみたいにキレイ。

盛り沢山だけどスッキリと配置されておる。

お岩さま縁の井戸がある。お岩さんの井戸?井戸はお菊じゃないの?とダンナ突っ込む。

田宮家の敷地内に本物の古井戸があるのだ。於岩稲荷で貰った印刷物に写真が載っていた。

御本堂と狛犬さん。

こちらの鈴はボインと鳴る鰐口で、本堂の左奥にお店があってお守りなど売っているようだった。

山門に向かって鎮座するはお狐さん。神仏エトセトラ習合なのだ。


由来の事。写真クリックで拡大。 でも読みにくいので下に書き写す。

 由来の事

江戸時代、文政八年七月 歌舞伎戯作者四世鶴屋南北作、「東海道四谷怪談」が世に喧伝され、
於岩様 庶民の畏敬を受け 当山その由縁の所として現在に至ったが 戦災に遇い 協議の上 本堂を栃木下野(しもつけ)から薬師堂を移築再建した 棟札には宝暦七丁丑とある。 於岩様の戒名は得證院妙念日正大姉 墓は元鮫ヶ橋にあったが 現在は移転し 巣鴨新庚申塚にある。 当堂内には於岩様御尊像が祀られ 参拝者祈願の対象となり 境内には由縁の井戸、再建記念碑等がある。

 平成五癸酉年十月吉辰
 於岩稲荷 長照山 陽運寺
 総代、世話人一同

平成5年に書かれたにしちゃ句読点が読み辛くなっているので区切ってみたけど、
読むほどに 謎が深まる 由来のこと 字あまり


ところで、
陽運寺じゃない方の於岩稲荷田宮神社の話なんだけど、

於岩稲荷田宮神社は明治12年に火災で焼失している。
その折、市川左團次に 「四谷は遠くてお参りに行くのが大変だから、
焼けちゃったついでに芝居町の近くに引っ越してきてくんねえ」 と頼まれ、
それを機に、中央区新川にある田宮家の土地に移転した。←左團次の土地という説もある。
しかし神社は移転しても、
四谷の地はお岩さん伝説ゆかりの田宮家代々の土地であるから、
新川の神社は残したまま、昭和6年に元の四谷左門町にも於岩稲荷を再建したのだという。

火災のあった明治12年当時の地図。右が北。 於岩稲荷が書かれている。


新川に移転後の、明治16年の地図。左門町を拡大。上が北。

於岩稲荷はまだ四谷にある、と、この地図を作製した参謀本部陸軍部測量局は認識しているわけだが、於岩稲荷はこのときすでに新川に移転しており、従って、昭和6年に再建されるまでは、ここは「於岩稲荷跡」ということになる。田宮家の人も新川に引っ越しちゃって誰も住んでいなかったかもしれない。妄想だけど。

そんな中、於岩稲荷があった場所の斜め向かいに、いつの間にか新たな神社が出現している。

さらに拡大。 ?マークが謎の神社。

江戸時代から明治初期の地図をいくつか見て来たが、この神社は影も形も無く、ここに来て忽然と姿を現している。場所的には陽運寺とも考えられるが、卍寺マークでなく鳥居マークだから他の神社かもしれないし、初期の陽運寺かもしれないし、そうじゃないかもしれないし、そうじゃあるかもしれないし。

左門町は武家屋敷と寺社が密集する地域で、江戸時代の絵図に記されている複数の寺が今も同じ場所に残っていることが確認できる。その中に陽運寺は無い。

陽運寺は空襲で焼野原となった戦後のどさくさに乗じてできたという人も多くある。田宮稲荷の宮司さん(の父上、禰宜さん)にお会いした時に直接伺えばよかったのだけど、聞きづらくて切りだせなかった。

竹垣とお狐さんの後頭部がいいカンジ。 クリックで拡大。

風の音が聞こえてきそう。

いつどこから来たのか謎の陽運寺なのでした。

於岩稲荷田宮神社


陽運寺

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