妄想オムライス
床下は骨伝導 ワ((゚゚дд゚゚ ))ワワ !!!!!



中世の傀儡(遊女)
海民と日本社会 網野善彦著 

中世の宿 p141〜抜き書き

軍事的、政治的な目的から計画的な大道として造成された八世紀の東海道には、やはり令(りょう)の規定によって、四里ないし五里の間隔で駅家(うまや)が置かれたが、それが荒廃し、人馬の交通路と陸の道の接点や山と平野の接点など、おのずから交通の要衝に宿(しゅく)が形成されてくる。

それはすでに平安後期には『更科日記』の美濃国野上宿や『本朝無題詩』の傀儡(くぐつ)のいる美濃赤坂などによって知られるように、東海道の所々に成立していたが、鎌倉幕府ー東国の王権が確立すると、幕府は京都の王権との間を結ぶ基本的な人馬の交通路として、東海道の宿駅の整備を積極的に推進した。(中略)

もとより、宿には盛衰もあったが、鎌倉期には守護の管理の下に置かれ、多くは大小の都市として発展する。すでに周知のことではあるが、その実態についてまとめて考えておくことにしたい。(中略・酒匂宿、駿河国蒲原宿など)

宿は河口あるいは河に沿って成立することが多く・・・熱田なども同様で、まさしく海上、河川交通と陸の接点にあたる境界的な場に宿が形成された。・・・・箱根足柄の関本、湯本も、山と平野の境界に成立した宿といえよう。

そうした場には市庭(いちば)の立つ場合が広く見られるが、宿は古くから市庭であった場に形成されるのが一般的であったといってよい。(略)

津、湊や市庭が在家(ざいけ)で成り立っているように、宿も「宿在家」によって構成されていた。東海道については、建長元年(1249)七月二十三日の駿河国宇都谷郷今宿の傀儡と久遠寿量院雑掌僧教円との相論を裁許した関東下知状に、傀儡の在家に間別銭十文を賦課した教円の所行を新義とした判決があるが、この在家が宿在家であったことはいうまでもなく、少し降って応永三十年(1423)八月三十日、駿河国守護今川範政は「興津宿在家」を興津九郎兵衛尉に返付している。

宿在家の事例は鎌倉末期の越前国三国湊の古宿、金津宿の在家や能登国高畠宿の「宿在家」などが見られるが、越前の場合は地子が賦課されており、このような都市的な課税としての地子と、一応、不当とされてはいるが、宇都谷郷今宿のような間別銭が宿在家には課されたものと思われる。

そしてこうした宿在家の住人の中で重要な比重を占めているのが、遊女、傀儡であったことは間違いない。すでにこれいついては詳しく明らかにされているので、あらためてのべるまでもないが、遊女、傀儡の確認されている宿としては近江の鏡、小野、美濃の野上、垂井、青墓、墨俣、尾張の萱津、鳴海、三河の矢作、赤坂、遠江の橋本、池田、菊河、駿河の島田、今宿、手越、清見関、蒲原、黄瀬川、相模の関本、小田原、酒匂、国府津、渋見、小磯、大礒、平塚等があげられている。

平安末期から鎌倉期にかけての遊女、傀儡などは、すでに天皇の女、「皇女」の子孫という伝承を持ち、美濃の青墓宿、墨俣宿の傀儡が後白河の宮廷に召し出されて今様を伝えたように、宮廷に出入りする一方、宿を訪れる貴族、僧侶などとともに琴、琵琶、管弦や連歌を楽しむだけの教養を身につけていた。さらに源義朝が橋本宿の遊女との間に義平、朝長、池田宿の遊女おとの間に載頼儲け、美濃の青墓宿の長者大炊を「御寵物」とするなど、東海道を往復するさいに宿々の遊女と深い関係を持っていたように、武将との関わりも密接であった。

実際、東国の王権を樹立した頼朝は建久元年(1190)に京都に行く道中、橋本宿では「群参」した遊女たちに多くの贈物を与え、連歌を行い、青墓では長者大炊の息女などを召し出して「纏頭(てんとう)」しており、建九四年の富士の巻狩にあたって手越宿、黄瀬川宿の遊女たちが群参したのに対し、里見冠者義成を「遊君別当」とし、遊女たちの「訴論」を扱わせるなど、その動きを秩序づけるべく、積極的な姿勢を見せている。

(中略)

このように、この時期の遊女、傀儡は朝廷、幕府とも公的な関わりを持つ独自な芸能民の集団としての社会的地位を保っており、決して 賎視された女性とはいえない。実際『古今著聞集』の鋳物師(いもじ)、山伏、中間(ちゅうげん)の宿泊した遊女の屋のように、その屋はとくに「好色」を目的としない旅人の宿となっている。また『とはずがたり』の主人公二条が、美濃の赤坂宿で「やどのあるじ」の「若き遊女」と琴、琵琶をひき、和歌の贈答をし、備後の鞆津(とものつ)では、尼の姿をした遊女の長者と会って、ここに一、二泊したように、遊女の屋は旅する女性のよき宿となることが多かったと思われる。

もとより、『古今著聞集』の話の中の山伏が、鋳物師にばけて遊女をだまして寝床にしのびこむことに成功し、遠江の池田宿に宿泊する鎌倉から来訪した地頭代に見参するために宿を訪れた所の荘官が、嫉妬深い妻によって「カクレタル所ニスリコ(磨粉、米の粉)ヲヌ」られたにも拘らず、「遊女ヨビテアソビ」をした上で「モトノヤウニ」「スリコヲヌリテ家ニ帰」ったところ、「塩ヲクハエタ」「スリコ」をぬっておいた妻によってたちまち見破られたという『沙石集』の話のように、遊女の屋は「好色」の宿ともなった。そしてここで遊女が宿に呼ばれ、また駿河国賀嶋荘実相寺の院主代が「好色之女」として「遊君」「蒲原之君」を迎え居(す)えたと衆徒たちから非難されていることからも知られる通り、遊女は客に呼ばれて出向くこともあったのであるが、全体としてみると、宿の中で遊女の屋が、宿泊の場としての機能を持っていたことは間違いない。

(中略)

これらの接待所はみな寺院によって経営されているが、都市あるいは都市的な場の共通した特質として、宿には寺院が非常に多かった。(中略)こうした日蓮宗の寺院は周知のように駿河をはじめ東海道に多く分布しており、多少、時代は降るが、「本土寺過去帳」にも武蔵の六浦、品川、相模の大礒、小田原、伊豆の網代などの地名を見出すことができる。

また萱津の近くの浄土宗寺甚目寺で、一遍が行法を営んだことはよく知られているが、萱津宿の光明寺、遠江の国府、見付宿の蓮光寺も他阿真教の開いた時宗寺院であり、時宗もまた東海道の宿をはじめ、都市的な場に広く教線を伸ばしていた。(中略)また、東海道から多少はずれるが、白拍子の根拠地であったことを確認しうる美濃の城田(きたい)寺に時宗の僧尼が集中しているのも見逃し難い。

(中略・毘沙門天への信仰)

注目すべきは、橋本宿の妙相が女性と推定されており、さきにあげた美濃の青墓宿の長者大炊が女性であったように、鎌倉期の宿長者に女性が見出される点である。妙相についてはなお検討の余地があるが、青墓の大炊は源為義妾、内記平太政遠、平三真遠の連枝としてまぎれもない侍身分出身の女性であった。

これを遊女集団の統轄者としての女性の長者、例えば前述した備後国鞆の尼の姿の長者や宇都谷郷今宿の傀儡栄耀尼のような人と直ちに同一視してよいかどうか、なお慎重でなくてはならないが、飛鳥井雅有がその娘と琴、琵琶をひいたという垂井宿の長者や、「なにかしの卿とかやのむすめ、おもひのほかにすむ」といわれた遠江の「こうの長者」などが女性の宿長者である蓋然性は大きい。宿における遊女の比重の重さから見て、これは十分にありうることであり、この時期の宿長者は女性であっても侍身分であるといってもよいと思われる。実際、鎌倉期から室町期にかけて、駿河国興津宿在家を知行するとともに宿長者でもあり、っさらに同国国府長者をも兼ねていたと見られる興津氏は、「船太郎屋敷」のように船人と推測される人を支配下に置く領主であり、室町期には今川氏の有力な家人となった武将であった。

ただ十五世紀以降になると宿長者の事例は少なくなり、女性の長者は見出すことができない。遊女についても女性の長者の統轄を確認しうるのは十四世紀までで、十五世紀には「亭主」といわれる男性が、「傾城」を統轄するようになっており、宿長者についても同様だったものと思われる。

もとより宿の住人は遊女だけでなく、しばしば僧形で僧名を名のる問丸(といまる)、酒屋、土倉(どそう)、商人、職人など、運輸、交易、商業等を生業とする人々が多数、集住していたことはいうまでもなく、そうした宿のあり方の多様な側面については、1988年、多くの市民、研究者等の強い保存の要望にも拘らず、完全に破壊された一の谷中世墳墓群の保存運動を通して、遠江国見付宿に即して詳しく解明されている。宿に接した丘陵上の全面に多様な形態のきわめて多数の墳墓が営まれたこの見付のような事例は、恐らく他の宿、都市に即してもありえたと思われ、こうした広大な墳墓と宿の結びつきについては、今後とも十分に注目しておく必要がある。

 (抜き書きオワリ)



p354〜抜き書き

また神崎・江口の遊女たちがこの海域(尼ヶ崎)にいたことはご承知のとおりですが、遊女もまた少なくとも十三世紀まではどこかの官庁に統轄されており、卑賤視された、社会外的な存在だとは到底言えないと、私は考えています。

 (抜き書きオワリ)
 








 

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手すりに懸りて操と成 倒冠雑誌
倒冠雑誌

芝居いまだ興行ならざる昔、声よく清きもの、床に昇(あが)りて太夫と成、こゑなく上手成ものハ手すりに懸りて操と成。筑後・近松の両人より竹田出雲を座本として宝永二年壬乙酉三月よりはじまり。益繁昌して類まれ成妙芝居也。

抑(そもそも)義太夫、天王寺五郎兵衛と言し時、初而(はじめて)やぐらを揚しハ貞享三年丑のとし(丑は貞享二年。義太夫旗上げは貞享元年とされる)にて、いまだ竹田のしばゐにあらず。ワキ竹本頼母・多川源太夫などにて興行ありしか、此時分より、よし田三郎兵衛・辰松八郎兵衛とて名人の人形有しが、才智発明にして両人共頭取役を兼帯して、人形の外に楽屋のしまり、給銀のおりのり、町中の評判、表(おもて)の上(あが)り、万事水ももらさず出情(しゆつせい)ありしが、故筑後掾博教(ひろのり)、竹田出雲かゝへの役者と成て芝居興行の節、即右之一チ座こと/\く竹田へ属して相勤めける。

此時代ハ別而(べつして)人形の芸至(いたつ)て上手ゆへ、突こみとて下より両手をさしこみ、人形壱ツを一人してつかい、手すりの上へと首を出さず、ちから一ばいさしあげ、みじかき浄るりながら丸一段出づかいのやうにしてつかいぬ。中/\見るもしんどく又なるべきとも見えず。中にも辰松ハ其妙なる所を得て諸人専ら用ゆる所也。依(よつて)今の豊竹越前のむかし若太夫と心を合し、芝居興行して勤しかども、自分の器量すぐれしか、又ハ時の運によるか、若太夫を退散して東武ふきや町に芝居を建て座本を勤、今繁栄のしばゐ是也。

同時吉田三郎兵衛ハ立役人形を専らにして元祖山本飛騨掾に近寄り、人形の奥義を極め其比よりの大立もの、天満やおはつのおやま人形辰松八郎兵衛相勤むれハ、徳兵衛は吉田三郎兵衛、税所の国性爺も此三郎兵衛役にて世に秀たる人形、ちかき此迄も、役ハなけれど惣楽屋の後見とて毎日/\出勤めしが、定(さだめ)有年月ハのがれがたく、延享四丁卯年三月十七日死去有よし、残念の袖をぬらしぬ。

一子八之助ハ幼少より生れ立人並ならず、器量骨柄人に勝れ、なる程一方の大将なるべき人相成しが、即「国姓爺合戦」に錦(きん)しやの出つかひ、片手にてのはれわざ、年若なれ共さすが親三郎兵衛の子程有、のち/\ハ天晴の役者にもなるべしと、人々是をほめけるが、扨こそ此南瞻部州(なんせんぶしゅう)に吉田文三郎と名を揚たり。

若かりし時分より親の職を受継て頭取役、出勤よりしバらくハ評判もなかりしが、大坂大火後、「鼎軍談(かなへぐんだん)」に玉芙蓉(ぎょくふよう)といふ人形より桐竹三右衛門をあざむき、続て「出世握虎(やつこ)」の藤吉よりめき/\と芸を仕上げ、「真鳥(まとり)」の助八兼道、「篠原合戦」の兼平、「京土産」の京八、「紅梅靮(たづな)」の梶原、「鬼一法眼」の大くら、「兜軍記」のあこや、「金(こがね)の歳越」の椀久所作事、「道満」の葛の葉・保名・与勘平、「かたき打」の次郎右衛門、「行平(ゆきひら)」の松風、「小栗」の太郎、「ひらかな」の松右衛門、別而(べつして)梅がへの無間の鐘(同四段め)は古今無双の事、尤も菊之丞(初世・瀬川菊之丞)の形とは言ものゝ、舞子あるひハ見物も上手になりて中〃常ていの事にてハ合点せず、目・口・まゆ・指先の動く人形迄を拵へ、当世の世話を心かけ、はやる事を人形にうつして一チ事もるゝ事なし。是大かた荒増は文三郎に初リぬ。

それより此かた、「児(ちご)源氏」の熊坂、「西行」の西行、「夏祭」の団七、人形第一の大当り、「菅原伝授」の管丞相・松王女房ハ珍敷仕内、中〃申ハくた/\敷、人々いつも肝をけしぬ。此次の浄るりに、嶋の勘左衛門(傾城枕軍記)ニ、塀をこす人形、馬に乗たる文三郎ともに引上げしが、是ハ昔の「かけ鯛心中」(今宮心中)の首しめの趣向より出し歟(か)、ふら/\としてことの外うけよろしからず、此時初而(はじめて)文三郎も悪敷(あしき)との風聞、「千本桜」の忠信、きつねの思ひ入是又大はね、耳の動く人形ハこれが始めの終りならん。

「忠臣蔵」の由良の助、「布引の滝」のさねもり、凡そ六七十余番の間、いづれか此人の不当りはなく、浄るりハさのミ出来ねども是非文三郎ハ人形にて少しにてもはねめありしが、此「布引」の比より与風(ふと)作者の気ざし専らにして、「恋女房染分手綱」、吉田冠子一作、昔の「小室ぶし」に当世の世話をまぜたる続浄るりに取組、「道成寺」の乱拍子、近代世話事にての大当り。世の取沙汰ことの外よかりし故、作者を第一にして、「名筆傾城鑑」ニ石橋の所作事出づかひ、其身ハ白粉青眉(おしろいせいたい)にて顔をぬり、四方八方にらみ付、文吾・官蔵もろとも板に乗て引づる趣向、さりとてはおとなげなく余りの大不出来、にらみ付し目の評判真如堂にひとしく、これをのミ評判を致しぬ。

次に「愛護の若」にて色をあげ、人形は付たり、作をおもにして、「小袖組貫練門平(こそでくミくハんねりもんへい)」「薩摩歌げいこかゞみ」など不出来にして、それよりハ病気にて引籠、出たりひつこんだり、子息八太郎ハ、「楠昔噺」の時分より千太郎の役にてありしが、「千本桜」の維もりの役よりめき/\と仕上げ、「忠臣蔵」より文吾とあらため、だん/\出生して三代根生(ねをひ)の立もの共なるべき器量、大かた子息へ役を廻して作のミとおもひの外、此度のおもひ立、其身人形は名誉の名人、作者ハする、吉田苗字の役者をかたらひ、近々新浄るり外芝居にて興行のよし、内々の取組吉田連名の内より告しらせたるによつて、竹田近江大キにおどろき、とやかくと是非なく、文三郎・文吾・弟大三郎並びに一家(いつけ)彦三郎同時にいとまを遣ハし、しばらく此座を退散す。依て太夫本より残る役者中へ、吉田苗字をあらため出情(しゅつせい)いたすべく段、書付をもつて楽屋へはり置。其文左のごとし。

 (後略)

日本庶民文化史料集成 第七巻 人形浄瑠璃 p36〜










 

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操人形の始まり 竹豊故事より
竹豊故事 操人形之故事名人之遣手古今達人之事

○連中間て曰、操人形の始りを承り度候。筑後翁答て曰、「猷顱覆い鵑福法廚奔、機関木偶(きくハんもくぐう・あやつりにんぎやう)ハ人に象どる。肢(し・てあし)と体(たい・からだ)と聚め集まる謂也と云云。「活法傀儡」の詩に曰、糸を穿ち木を割(きざ)ミて巧ミ神のごとく限り無し。機関此身に在りと云云。「文撰」の「註」に曰、手の伎を技(し)と云、体の才をば芸と謂と云云。「事類全書」ニ曰、木偶ハ人形也。本来ハ喪(さう・うれひ)家(か)の楽なり。漢に至て始めて喜(き・よろこび)会に用ゆと云云。傀儡子(くわいらいし)、又ハ(または)郭禿(くわいらいし)共書也。委ハ「風俗通」「紀原」「書言故事」「顔(かん)氏家訓」等の書に出たれバ、唐土(もろこし)にも古来より翫(もてあ)そび来る哉。順(したがふ)の「和名集」ニ曰、木偶を弄そぶ者を屈儡子(くつらいし)と云へり。本朝摂州西の宮より出る。俚俗是を名づけて筥出狂坊(はこでくるぼう)と云と云云。「史記」殷の本記の「正義(しやうぎ)」に曰、土木(どもく)を以て人形を対象(たいじやう)すと云云。此説を以て人形と号する者成べし。「南領(なんれい)子」に曰、傀儡ハ木偶の戯むれ也と。註に曰、今云人形舞し也と云云。然るに「和歌雑題」にハ傀儡と云てくぐつと訓て遊女の事とす。傀儡何ぞ遊女に限らんや。惣て人形舞しの事成べきを遊女の事に限る様ニ成しぞと思ふに、摂州西の宮より人形舞し世間を廻りて、始て遊女の人形を第一番に立て遣ふ。これより転じ来れりと見へたり。「下学集(かがくしう)」に曰、日本の俗遊女を呼(よん)て傀儡と謂と云云。是等の本文に依るときはおやま人形が根本也や。操芝居の表付(ひやうづけ)にもおやま人形遣ひを立物札に書来れり。「枯杌(こごつ)集」ニ曰、傀儡師とハ出狂坊(でくるほ)舞しの事也。是を「詩」の「註」にハ滑稽優人といへり。滑稽とハ戯游言(たはむれこと)と云て人を笑ハする也。優人とハ猿楽の事にて狂言をする者成。是皆傀儡子の類ひ也と云云。「諸社神託」の「紀」ニ曰、西の宮恵美須太神御託宣ニ年の始尓(に)諸〃の民尓笑於催左世勇勢而富貴於護牟(としのはじめにもろもろのたみにわらひをもよほせいさませてふうきをまもらん)と云云。此神託に依て、往古より此所の民、春の初めニ女人形に呉服(くれは)の所作事を舞す也。是を紗の/\衣(しゃのしゃのころも)と号せり。其外異様成人形を舞し、京都を始め国〃を廻り、獣(けだもの)の皮を終(はて)に出して悪ひ事した者ハ山猫ニかまそふと威す。是上代の勧善懲悪の誡め、質素正直の神教への由遺風(ゆいふう)、出狂坊を舞して笑ひを進む。此故ニ此傀儡子を「神道秘要」にハ恵美須賀質(えびすかき・よろこぶかたち)と号する也。

○寛文の比、江戸ニ小平太と云人形遣ひの名人有。「羅山文集」に曰、鼓吹蛮琴(こすいばんきん)有て木偶(でく)の動くに応じ曲節(きよくせつ)有。且是を操り是を引、板を踏んで呼者と木偶の相得たる事殆ど生るが如し。今日の為(なす)所の者、江都第一の偃(く)師小平太と号す。近世傀儡の巧手たりと云云。此小平太、おうあま・男人形共ニ能(よく)遣ひし名人のよし伝へ聞たり。相続ておやま次郎三郎此道の達人也。近世にハ辰松八郎兵衛名誉を顕ハされたり。京都にハ貞享元禄び比、おやま五郎兵衛。同五郎右衛門。大蔵善右衛門。正徳享保の比、三舛平四郎・宇治久五郎・三十郎・与八郎等何れも名を得し上手の遣ひ手也。大坂にハ辰松氏・藤井小三郎・桐竹三右衛門等のおやまの名人有し也。当時立役人形吉田文三郎ハ古今無双(ぶそう)の名人也。相次て若竹東工郎誉れ高し。おやまハ今藤井氏、男人形にハ桐竹・吉田豊松。若竹氏の中に上手分多し。

○手妻人形ハ山本弥三五郎飛騨掾に始まる。南京糸操ハ寛文延宝の比より遣ひ始めし由、京都山本角太夫芝居ニ専ハら遣ひし也。又其比に江戸和泉太夫座ニ野呂松勘兵衛と云し人形遣ひ有。頭(かしら)平めにして青黒き顔色の賤気(いやしげ)成人形を遣ひて是をのろま人形と云。のろまハ野呂松の略語也。又鎌斎(けんさい)佐兵衛と云ハ賢き質(かたち)の人形を遣ひ、相共に賢きと愚成との体を狂言ニ仕始めし也。其比の人、愚かに鈍き者を賎しめ、のろまと云異名を付痴漢(あほう)ニ比したり。此野呂松氏を祖とし、京大坂の操芝居ニ野呂間・麁呂七(そろしち)・麦間(むぎま)等と名を付、道外(だうけ)たる詞色(こハいろ)をなし、浄るり段物の間の狂言をなしたり。近来ハヶ様成事ハ捨(すた)り。知れる人も稀ニ成し也。出遣ひハ辰松八郎兵衛ニ始る。此人古今の達人にて、手摺を放れ無量の手段を遣ふ。全身少しも乱るゝ事なし。京大坂にて誉れを取、後に江都ニ来つて益〃其名高く成、剰(あまつ)さへ、御免操りの櫓幕を上、芝居を興行せり。是を辰松座と号せし也。

○筑後翁の曰、扨〃何れも打揃ひ、此道に執心の厚き段、愚老も大悦是に過す。次手なから各〃へ御目に懸る物有と、巻物一軸取出し、忝も此書の義ハ去年節分の夜、不思議なる霊夢を蒙むれり。先年死去有し近松門左衛門の霊魂来られ、夢中に某がしに与へられし処の一巻也。是にて読上申さん間、各〃謹んで拝聴有べしと、三度推戴きて紐を解、高らかにこそ読上ける。


  日本庶民文化史料集成 第七巻 人形浄瑠璃 p30〜







 

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初期の人形浄瑠璃
日本芸能史入門 後藤淑著 現代教養文庫494 昭和39年第一版出版

 p211〜書き写し


 初期の人形浄瑠璃

歌舞伎と並行して行われ、民衆の人気を得て発展したものが人形浄瑠璃である。

人形遣いは傀儡師ともいわれ、平安時代のころの記録に早くからあらわれている。平安時代の傀儡師は遊行の生活を続けて、雑芸を演じ、物乞いの生活をしていた 賎民で、その出自は中央アジア・西域地方にあり、支那を経てわが国に入ったものといわれている。わが国にも古くから「くぐつ」という木偶を使った雑芸団がいたという説もあるが明らかでない。この傀儡師は室町時代の末ごろまでに全国に分布し、各地に土着し、物乞いや興行を続けていた。傀儡師の操る人形は小さな指人形のようなもので、人形の箱を肩から吊し、その箱を利用して人形を操り、ひとりでいくつかの人形を操った。



傀儡師 このころ草子 より


☆参考:台湾の突っ込み指人形劇「布袋劇」

この指人形の技術は半端なく凄いのだ。
文楽の人形遣いの手首は一体全体どうなっちゃってんの???といつも思うのと同じくらい、
指の、特に第一関節どうなっちゃってんの???と思う。


ここは劇場なので、舞台上に人形劇用の小さな屋台を据えて演じている。

舞台両脇に字幕が表示されている。 画像:BS1放送「赤い箱 〜台湾 人形師の魂〜」より


 
彼らが人形を操りながら語ったものがどんな内容のものであったか明らかでない。この人形が当時琵琶法師などの間で行われていた浄瑠璃と結びつくのである。

現在、人形劇や歌舞伎で、三味線にあわせ、変わった節回しで語るものを浄瑠璃といっている。此の浄瑠璃は室町時代末ごろ琵琶法師が琵琶や扇拍子にあわせて語っていた節回しであった。なぜ、浄瑠璃といったかというと、琵琶法師の語り物の中に浄瑠璃姫の物語があった。この物語は源義経と峰薬師(三河鳳来寺のことであろうか)の申し子である三河作矢の長者の娘浄瑠璃姫との恋物語であるが、この物語がとくに世人の評判となり人気をよんだ。いったいに室町時代は義経や蘇我兄弟という悲劇の英雄に人気があったときで、浄瑠璃姫物語もその影響かと思われる。この物語があまり人気のあったものだから、琵琶法師たちが語る節を一般に浄瑠璃というように普通名詞として使うようになったのである。

琵琶法師は鎌倉・室町時代に平家物語を主に語り、平曲といえば琵琶法師の語り物と一般にいわれていた。こういう語り物が琵琶法師によって語られているところへ、室町時代の末に琉球から三味線が伝わった。琵琶法師たちはこの三味線で浄瑠璃を語ったところが、非常に調子がよかったので、それ以後しだいに琵琶や扇拍子がなくなり三味線が主要楽器となった。

三味線で浄瑠璃を語っていたものが、だんだん新しいものを望むようになり、浄瑠璃で語る内容を、形のあるもので表現したらもっと面白かろうというので、思いついたのが傀儡師の人形である。そこで、当時の人形の上手な遣い手として知られた摂津西の宮の傀儡師と結んで、京都四条河原で興行してみた。当時日本第一の興行街といえば京都の河原であった。これが人気をよんで、以後人形は浄瑠璃と手を結び、すばらしい発達をとげることになった。

この人形浄瑠璃は最初京都において栄えた。このころの人形浄瑠璃の内容は明らかでないが、薩摩太夫を中心とした豪快な語りを特色とする流派と、杉山丹後を中心とした柔らかみのある語りを特色とする流派があったといわれている。京都の河原興行街で栄えていた人形浄瑠璃はその後新しい都市である江戸に進出しはじめ、江戸中橋広小路の興行街で、江戸町人の非常な支持をうけて発展した。

江戸で人形浄瑠璃が栄えたとき、最も人気のあったのが、薩摩浄雲派の豪快な語りであった。江戸は武家の都市であり、当時はまだ戦いの空気が消えやらぬときで、荒っぽい江戸の民俗性は薩摩浄雲派の人形劇とよくマッチした。浄雲派の中でとくに有名なのは丹波太夫と源太夫で丹波太夫は金平浄瑠璃を江戸から京阪に移し、さらに竹本義太夫の浄瑠璃を生むもとを作った人物なのである。

金平浄瑠璃というのは大江山酒呑童子で有名な坂田金時の子金平を主人公にして、荒々しく剛勇な金平が悪人どもを切り倒すというもので、荒いことの好きな江戸町人の人気をよんだ。金平の人形は傀儡師が使っていたような箱人形ではなく、もう少し大きなもので、舞台を作って、そこでひとりがひとつの人形を操って演ずるというものであった。金平というと何でも酒呑童子の物語ばかりかというとそうではなく、酒呑童子物が一番人気があったからのことで、軍記物なども語られた。したがって登場するのは金平ばかりでなく、その他の英雄も主人公となって登場したわけである。こうした豪傑にたいする相手として、人間ばかりでなく、妖怪変化などいろいろなものが登場した。





金平浄瑠璃の創始者という丹波太夫すなわち和泉太夫は鉄の二尺ばかりもある太い棒で拍子をとったといい、その語りは和泉太夫節といって荒々しく聞こえたという。この頃は、人形遣いと浄瑠璃語りは両方兼ねていたのではなかろうかといわれている。

この金平浄瑠璃以外に各流派があって、金平浄瑠璃とともに江戸を中心に行われていた。また説教という中世いらいの曲節を語る者も、人形と結んで各地で行われていた。彼らが中世いらいの宗教霊験談・因果物語などを語っていたことはもちろんである。謡曲「自燃居士」は説教者を題材にとらえたものであった。苅萱や山椒太夫などは説教の中でも有名な曲である。

さて、今まで江戸のことを中心にのべたが、京阪はどうであったろうか。江戸で金平浄瑠璃が栄えていたころは、京阪地方の人形浄瑠璃はこれといって取りあげるような発展はなかったといっていい。京阪の人形浄瑠璃が注目されはじめたのは、明暦大火によって江戸の興行街が焼失し、浄雲の弟子である源太夫と源太夫の弟子である喜太夫が京阪にきてからである。金平系の浄瑠璃は京都で、平曲とも幸若舞の曲節ともいえない出所のはっきりしない島ものだと軽視されたが、しかし、その珍しさが人気を得たのであろうか、一時、京阪において金平系の浄瑠璃が栄えた。大坂に居をしめた源太夫の曲節は後年の竹本義太夫に影響を与えるのである。

初期の人形劇にノロマ人形という能楽の狂言、歌舞伎踊の狂言・猿若系のものが入っていたことも注意しておく必要があろう。人形劇の中にいつころから、道化た人形が加わったのか明らかでないが、江戸和泉太夫座にはもうノロマ人形があったといわれている。実際にはもっと古くから人形劇の中に加わっていたのではなかろうかと思う。能狂言と同じような役割をしていたらしい。



のろま人形 佐渡人形芝居


さて、以上のように初期の人形浄瑠璃を眺めてみると、人形浄瑠璃は歌舞伎と同じように外形は能楽などの形式をかなり多く学んでいることが知られる。また、歌舞伎は写実的・世話的な面が強かったが、人形浄瑠璃は前代の、平曲・幸若舞曲・謡曲・説教などの語り物の系統をうけて、時代物的な色彩がかなり強いように感じられる。

 (書き写しオワリ)


☆つづいて近松や義太夫の活躍を通して人形浄瑠璃の発達が述べられている。
 その項p236より以下書き写し。

さて、人形劇の歴史の上で、近松作「国姓爺合戦」は見逃してはならない作品である。それはこの作品が十七ヶ月という長期興行をしたことと、浄瑠璃の一段と一段の間に演じていた間狂言「のろま人形」がこのときからでなくなったことである。なぜ「のろま人形」を使用しなくなったのか明らかでないが、おそらく劇構成が複雑になって、内容のあるものができてきたので、途中に間狂言をいれるのはむしろ劇の雰囲気をぶち壊すことになったからだろうといわれている。ともかく「国姓爺合戦」を境として、享保・宝暦期にかけて義太夫節の全盛期を迎えることになるのである。

 (書き写しオワリ)

☆しかしながら『国姓爺合戦』の頃の人形はまだ、ノロマ人形と同じく一人遣いだった。
 日頃つい忘れがちだけど、近松の作品の初演はすべて一人遣いだった!








 

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傀儡師なるもの

特殊部落の研究 菊池 山哉 p254 
  長吏配下の道の者 傀儡師(三十五番) より書き写し


傀儡師なるものが、戦国頃如何な業体であったか判然致しません。江戸の傀儡師は人形舞わしでした。そして自分で瑠璃を語って居りました。(塵塚談)(飛鳥川)甲州ではササラとも言われて説教語りになって居ったようです。


くぐつ

「平家物語」に高倉院が宮島詣での帰りに清盛入道の福原の館へ立寄られた折に
 くわいらい、苫(とま)、尾形に袖をつらねて、拍子を扣き、遊君は船の中に、かさを並べて鼓をうつ。
とありまして、この傀儡は正しく遊芸人です。この傀儡を一名くぐつと言います。中世厩路(うまやじ)へ現れた遊女をくぐつ女と言いました。「塵袋」に

傀儡(略)くゞつと云フハ、昔ハ様々アソヒ術共シ、人ニ愛セラレケリ、今ノ世ニ其義無シ。女ハ遊君ノコト也、男ハ殺生ヲ業トス。

「新和歌集」に藤王と呼ぶ、くぐつ女の歌があり。「新古今和歌集」に阿己や侍従と呼ぶ、くぐつ女の歌があり、当時は白拍子にも近い、教養あるもののように思われます。或は京と田舎と品柄が変って居ったものでしょうか。
「散木奇歌集」にくぐつが廻って来ましたので、遊女と合せて歌を謡わせようと遊女の宿へ呼びにやりました。居ないとの事に、

 うからめは、うかれて宿も、定めぬか、
 くゞつまはしは、廻り来て居り。

とあります、「奇歌集」の編者源俊頼は、平安末期の人。

又「今昔物語」二八、に伊豆守の館へくぐつが多勢やって来て、御前で歌を謡い、笛を吹いて遊びました。その時同国の目代は、元はくぐつであったものが、文算がありましたので、取り立てられ目代職にまで、へし登り、納まって居りましたのですが、この酔興に、くぐつと一同になって、歌い囃しましたので、怪しまれ、遂に尻尾を出したとの物語があります。平安中期既に歌謡う、くぐつはあったようです。


「傀儡子記」

ここに大江匡房の「傀儡子記」の全文をあげて置きましょう。鎌倉初頭長吏を創始するに当りまして、当時の凡下社会を知るに、必要と思われるからです。

傀儡子者、定居無く当家無し、穹廬氈帳、水草を遂ひ、以て徒を移す。頗る北狄の俗に類せり。男は則皆弓馬を使ひ、狩猟を以て事と為し、或は蒦剣を跳ばし、七丸を弄し、或は木人を舞し、桃梗を闘はし、能く人の態を生ぜしめ、殆ど魚竜曼蜒の戯に近し、沙石を変じて金銭と為し、草木を化して鳥獣と為し、く人目を□(驚イ)かす。
女は即ち愁眉の啼を為し、折腰の歩、齲齒(うし・くし)の咲を粧ひ、朱を施し、粉を伝し、倡歌淫楽、以て妖媚を求む。父母夫智って之を誡めず。亟行(しばしば)人振客に逢ふと雖も、一宵の佳会を嫌はず、微嬖之余、自ら千金を獻(こん・ささげ)し、繍服錦衣、金釵鈿匣の具、悉く之あらざるはなし。
一畝の田を耕さず、一枝の桑を採らず、故に県官に属せず、皆土民に非ず、自ら浪人を限る。上は王公を知らず、傍ら牧宰を怕れず、課役無きを以て、一生の楽と為す。
夜は則ち白神を祭り、鼓舞喧嘩、以て福助を祈る。
東国美濃参河遠江等の党を豪貴と為し、山陽播州、山陰馬州等の党之に次ぎ、西海の党下と為す。
其名は儡、則小三日、百三千載、万歳、小君、孫君等也、韓娥の塵を動かし、余音梁を繞り、聞く者纓(えい)を霑(うるお)し、自休する能はず
今様、古川様、足柄片下、催馬楽、里鳥子、田歌、神歌、掉歌、辻歌、満国、風俗、呪師、別法士之類、勝げて計ふべからず、即ち天下の一物也。誰か哀憐せざる者あらんや。

以て八百年前、此徒の生活が髣髴として分かり、大道芸人の源流を推するに難くありません。又しばしば行人ふり客に、とあります、フリ客を多くの書が旅客の誤写だとして居りますが、行人即ち通る人であり、フリ客とは初会の人で、今でも知らない客をフリの客と花街では称して居ります。その事で、誤りでは無いと思います。


貞永式目の傀儡師

以上「今昔物語」のくぐつも、「傀儡子記」のくぐつも、仔細に読んで居ると、編戸の民ではないだけで、その故郷はあったもののようです。

「貞永式目追加」に
 一、離別ノ妻妾、知ニ行前夫所領一事(文永四、十二、二六)の条に、

 次に御家人に非らざる輩の女子、並傀儡子、白拍子及凡卑女等、夫の所領を誘取り、知行せらる者は、同じく之を召さるべし。但し後家となり、貞節あるものは、制の限りにあらず。

とあります。ここにあある「くわいらいし」は女子であり、凡そ卑女よりは、上位であり、定住者でる事は明らかです。伊予国三島文書、建長七年十月日免田注文に、諸色人の名と共に並び存する、傀儡師なるものも、定住者です。乃ち都会や社寺に足を停めて、夫婦別々の芸能を以て、渡世した輩もあったものでしょう。


江戸の傀儡師

「塵塚談」上に

 傀儡師を江戸の方言に、山猫とも、人形廻しとも云ひ、人形を入れた箱を、胸に懸け、
 太鼓を叩き、自分で浄瑠璃を語り乍ら、人形を舞はし、人の門へ立って、銭を貰ふ。

山猫というのは、最後に山猫を現わして、チチと啼かせたから出た名で、著者小川顕道(元文二年生まれ文化十一年死)の十四、五歳頃までは、一ヶ月に七、八度は、廻って来たが、其後は絶えて仕舞ったとあります。
著者不詳随筆「飛鳥川」に

 傀儡師、宝暦の頃、人形舞はし也。

とありますので、その頃で絶えたらしいのです。句に

 傀儡師、万歳よりは見てがなし。
 野暮なもの、角兵衛及傀儡師。

また古歌に

 世の人の、心はいつも傀儡師、仏出すも、鬼を出すも。

これは江戸の傀儡師です。

甲州では説教太夫となって、

 以傀儡戯場之事業者也。

と「甲斐叢書」にあります。一つにササラとも呼び、一書に人形舞はし也、ともあります。一つでは食べて行けないので、種々な事をやったものでしょう。

扨て戦国となってから、入り込んだと見られる信州の傀儡師は、どんな業体であったものでしょう。今は信州の人の研究をまつより外はありません。
然しこれまでは平家座頭と言い、猿楽と言い、舞太夫と言い、どこまで庶民的であったか疑わしいものですが、傀儡師などは庶民のもので、初めて大道芸人で入ったもののように思われます。



儡女の登場と変容 〜日本における買売春〜 服藤早苗  PDF
 上記『今昔物語集』からの引用その他資料多くあり。
 服藤早苗氏の著書 古代・中世の芸能と買売春 遊行女婦から傾城へ 







 

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