妄想オムライス
床下は骨伝導 ワ((゚゚дд゚゚ ))ワワ !!!!!



熊野街道(阿倍野)と八軒屋

松虫塚から徒歩2分、「松虫」の交差点を南へ渡れば熊野街道の松虫入口。←便宜上こう呼ぶ

うわ〜旧街道がそのまま残ってる!じゃあこの道沿いに安倍晴明神社と王子神社はある筈よ。


この道が午前中に歩いた小栗街道と繋がっているんだよ〜ォ


熊野かいどう

熊野街道は 熊野詣が盛んになった平安時代後期から鎌倉時代にかけて整備された。

起点は渡辺の津(現在の中央区天満橋京町 江戸時代にには八軒屋浜と呼ばれた)で、
当時、ここから終点となる熊野本宮までの道筋には、一里塚や、九十九王子を
まつった社が置かれ、蟻の熊野詣と形容されるほど賑わったという。

今はもう、この一里塚も市内から姿を消し、社も阿部王子神社を残すのみとなって、
往時の面影はなくなったが、熊野街道の名は、多くの人の心の中に生き続けている。

                     平成二年 大阪府



 阿倍野では昔「熊野街道」は「阿倍野街道」と呼ばれていたらしく、
 今「阿倍野街道」といえば、バス通り(国道30号線)のことを言うようだ。
 土地によって熊野街道の呼称が違っておもしろい。
 たとえば和泉市の「熊野街道」は地元にまつわる伝説にちなみ、
 現在も「小栗街道」と呼ばれている。


道しるべに「八軒屋から70キロメートル」とある。

そう、


熊野街道のスタート地点は大阪の八軒屋なのだ!  扇子 大阪すげー!


ここ阿倍野から遥か北、天神橋と天満橋の間に八軒屋はある。

黄色の〇で囲った所。天神橋の上から撮りました。


摂津名所圖會 八軒屋


 八軒屋

大江岸
又 大江浦
とも詠(よめ)り

夫木
玉も刈り
大江の浦の
うら風に
つつじの花々
ちらぬへらなり
 読み人しらず

豊太閤御在城より
市中となりて 京師(けいし)
上下のゆきき 夜の舩 昼の舩
出(いづ)るあり着くあり 群来る人の
絶え間もなく 賑しき事
ならぶ方なし むかしは
大江の岸 大江の浦といいしも
今は京橋筋三丁目四丁目
という 又八軒の旅舎(はたご)あれば
土俗八軒屋と地名す




八軒屋と熊野街道と永田屋昆布本店




土佐堀通沿いの「永田屋昆布本店」前に、



「八軒屋船着場の跡」の碑がある。




この地は江戸時代には八軒屋と称し淀川を上り下りの三十石船の発着場として
さらに古くは渡辺といい紀州熊野詣での旅人の上陸地として栄えた。

また大江山の鬼を退治したといわれる渡辺綱はこの地を支配した攝津源氏一族の
出身であり「地獄門」で知られる遠藤盛遠が袈裟御前を見初めたのも ここに
架けられた渡辺橋の渡りぞめの時のことと伝える。

楠正行がこの橋からなだれ落ちる敵兵を救いあげ衣料を与えて国へ帰してやった
という美談は明治初年わが国が万国赤十字に加盟のとき伝えられて感銘を与えた。

 昭和四十年五月  牧村史陽 識



 牧村史陽さんは「大阪ことば事典」を編んだお方
  一家に一冊 大阪ことば事典 amazon

 牧村さんによる「八軒屋の歴史」が読める
  周辺の歴史-永田屋昆布




とかなんとか言ってるうちに、


マンションの名前がヤスナだよ! 

保名は安倍清明のパパの名前、そろそろ安倍清明神社が近い予感。





阿倍野・熊野街道(旧阿倍野街道)










 

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玉藻前曦袂 初演番付
宝暦元年(寛延四年)辛未(1751*10月27日改元)

正月十四日又は十五日 豊竹座 大坂

那須野狩人(なすのかりびと)
那須野猟師(なすのかりうど)  玉藻前曦袂 (たまものまえあさひのたもと)

初段  大序  豊竹筑前少掾
    中   豊竹八重太夫
    切口  豊竹友太夫
     奥  豊竹百合太夫

二段目 口   豊竹友太夫
    道雪  豊竹鐘太夫
     ツレ 豊竹八重太夫
    切口  豊竹若太夫   
     奥  豊竹駒太夫

三段目 口   豊竹阿蘇太夫
    中   豊竹鐘太夫
    奥   豊竹筑前少掾

四段目 口   豊竹百合太夫
    切口  豊竹駒太夫
     奥  豊竹若太夫

五段目     豊竹阿蘇太夫

三絃      鶴沢三二
        竹沢善四郎
        野沢清五郎
        野沢名八
        鶴沢文治
        野澤万五郎

薄雲王子    瀬川平助  
右大臣道春   瀬川平助
御台萩の方   藤井小三郎 
桂姫      藤井小三郎 
初花姫     藤井新十郎 
安倍晴成    若竹東工郎 
安倍采女之助  若竹伊三郎 
三浦介義明   豊松藤五郎
女房伏屋    藤井小八郎
十作      若竹東工郎
女房おせつ   藤井小三郎
和田五郎    豊松弥三郎
上総介常広   若竹伊三郎
妻ときはづ   三浦新三郎
玉藻前     藤井小三郎
鷲塚金藤次   若竹東工郎
おやな     藤井小八郎
県監物     豊松藤五郎
  

○『邦』と正本は「正月十四日」とするが、他は「十五日」とある。

○中之島図蔵、鱗形屋孫兵衛、西沢九左衛門版七行本によると、角書に「那須野狩人/那須野猟師」とあり、「座本 豊竹越前少掾」「作者 浪岡橘平 浅田一鳥 安田蛙桂」とある。本文末に「寛延四辛未歳正月十四日」とある。京大図蔵正本も同じ。『外・寛』には「作者 浪岡橘平 安田蛙桂」とあって「浅田一鳥」を欠くが、『声曲類纂』は正本に同じ。

○『系』の豊竹若太夫の条に「大序三の切勤る」とあるも、『邦』の番付との矛盾はないと判断してよかろう。『系』には外に豊竹駒太夫、豊竹阿蘇太夫、豊竹八重太夫、豊竹鐘太夫、豊竹友太夫の条にこの興行に触れるが、持場は『邦』の番付に同じ。また『系』には豊竹枡太夫の条に「此時は病気にて相休み」とある。

○『女大名東西評林』豊竹駒太夫の条にも、二段目大当りの記事あり。『譜』には「此浄瑠璃不入りにて」とある。

○石割松太郎『邦』書入れに「はやりおんど兵庫口説刊 北堀江市ノ側綿屋藤兵衛板 森田作」とあり。同書入れに、人形役割の「右大臣道春」を「右大臣道忠」に訂正。絵尽にも「うだいじんみちたゞ公」とある。

○演博蔵八文字屋版絵尽の太夫役割の墨書は『邦』と異同はない。(口、中、奥などの名称に一部異なるものがある)。


  義太夫年表近世篇第一巻 p218






 

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浅草の一つ家 姥ヶ池
歌舞伎『南総里見八犬伝』の文楽バージョン『花魁莟八総・後日』の番付

「浅草一つ家のだん」

という段が見える。はァ? なんですと?
『奥州安達原』の「一つ家の段」に類似しているではないですか。
安達原の一つ家みたいなのが浅草に場所を替えて八犬伝に登場するですと?
あのおっかない安達ヶ原の鬼ババの別宅が浅草にあるですと?
ほんじゃ「里見八犬伝 一つ家」で検索。

石川秀巳さん著 八犬士列伝構想をめぐる問題 PDF

の11頁で、八犬伝に登場する女悪役「船虫」の悪事が「浅草一つ家・石の枕伝説」を背景にしたものであると解説している。八犬伝の船虫が登場するシーンは劇場でも本でも見たことがないので、ちょっと書き写させてくださいまし。


 三
船虫が最初に登場したのは 崗文吾抑留譚」であり、舞台となるのは武蔵国浅草の近くの阿佐谷だった。船虫とその夫鴎尻並四郎とが、犬田小文吾を家に泊め、深夜寝込みをおそって金品を奪おうとしたのは、高田衛らが注目し、馬琴自身作品中に明記するとおり、浅草一つ家の石の枕伝説(以下、〈一つ家伝説〉と呼ぶ)を背景にしているのである。

彼奴は窃に旅客(かやつはひそかにたびびと)を。殺して路費を略奪る(ろようをうばいとる)。年来(としごろ)の強盗にて。今宵はじめてさる悪心の。起りしものにはあるべからず。(中略)昔もかくや浅草の。石の枕の故事(ふること)にも。をさ/\劣らぬ癖者なりしを。・・・(第五十三回)

この〈一つ家伝説〉には異文があるのだが、おおむね-浅茅が原の一軒家に老母と娘が暮らしていた。老母は娘に客を取らせ、娘と同衾した旅人が寝入ると、天井につるした石を斬って落とし、殺害して金品を奪う-というような話である。(行論の都合上、娘の自己犠牲と観世音による救済の物語は省略した)。小文吾を泊め、深夜に殺害し財布を奪おうとしたのがそうした「浅草の。石の枕の故事」を彷彿とさせるというわけである。〈一つ家伝説〉への言及はここだけではなかった。船虫は馬加大記の手助けで役人の手から逃れたあと、◆峅猫退治譚」やぁ峪蛎餌犲k」に繰り返して登場するのだが、酒顚二が捕えられる際に一緒に山塞を逃げ出した媼内と武蔵国馬浜に流れてきて、А嵬嗅遏ζ散敝仇譚」では夫婦になっている。そこで船虫は、

船虫は。十字街妓に打扮て(つじぎみにいでたちて)。夜毎に浜辺に立ものから。客を掖べき与(ひくべきため)のみならず。その懐に東西(もの)あるをば。媾合の折脣(こうごうのおりくちびる)を。まじへて舌を噬断(かみきり)て。殺して尸骸(しがい)を海に棄る(すつる)に。媼内(おばない)は妓有(ぎう)になりて。初めよりその辺(ほとり)に在(お)り。倘(もし)手に及ばざるものあれば。力を勠し(あわし)拉ぎ(とり
ひしぎ)て。走す(はしらす)ことなかりしば。恁(かつ)ても人の知らざりけり。(第九十回)

という悪事を重ねているのであり、その悪逆ぶりに対してやはり、

回国雑記にしるされたる。浅草野路の孤屋(ひとつや)の。石の枕の虚情(あだなさけ)。いくその人を殺しけん。昔も恁(かく)や。と世の人の。世に多かるべき事ならずとて。怕れざるものなかりけり。(同前)

と、「浅草野路の孤屋の。石の枕」すなわち〈一つ家伝説〉のイメージを重ねているわけである。船虫は〈一つ家伝説〉と深いつながりを持つ。 (後略)



馬琴の文章は漢字に凝っているというか、当て字というわけではないだろうけど
変わった字を用いていて、読み難いんだな。読まないと慣れないな。
ほんじゃ「浅草一つ家」で検索。

wikipedia浅茅ヶ原の鬼婆

なるほど・・・史跡?
浅草の姥が池?花川戸公園?浅草寺に石枕?
マジでsuka---?!

と、昨年末にここまで書いてほったらかしにしてあった。
ほんじゃ行ってみよー。


花川戸公園どこ? ここ?



おおお、公園内に池がある!姥ヶ池かもよ〜。



浅草寺の二天門を出て真っ直ぐ来ると、

左側に、


花川戸公園はっけん。

江戸時代以前、ここいらを浅茅ヶ原と称したのだな。


姥ヶ池もはっけん!

 背広姿のおっさんが何気に酔いつぶれております。浅草っぽいです。



奥州安達原ならぬ浅草浅茅ヶ原。母親が誤って自分の娘を殺めてしまう話なのも似てる。


石碑に「姥ヶ池之旧跡」と刻まれてある。



地図のとおり石碑のうしろに池もあった。これが姥ヶ池の跡、もしくは再現と思われる。



池を守るは福壽稲荷大明神。

福壽稲荷はどこからやって来たのか?もとからここにおわすのか?


文化江戸図 文化8年(1811)  ←南 北→

見て見て見てほれ、あった! 


部分拡大したぞ。

フクシュインノゴンケンとあって鳥居マークが書いてある。

フクシュインノゴンケン=福壽院の権現=福壽稲荷大明神!


つぎ。90度回転。北↓ 南↑ ほれ見てほれ!

ウバカイケとあって左隣に楕円で池を表わしている。

ほれ、ウバカイケ姥ヶ池! 

しかも、池の中に長方形の浮島のようなものがあり、
浮島にはきっと社か洞が祀ってあって、そこに
フクシュインノゴンケンさんがおわしたと考えられるじゃないすか。

いや〜〜〜おもしれえぇ!

ちなみにウバカイケの上の平仮名の「ち」みたいな字は「寺」の筆記体だす。



☆追記
姥ヶ池と猿若町が一緒に見える絵図はっけん。前掲の絵図より50年前後下って、
つまり天保の改革(1830〜43)後になる。
江戸三座が猿若町に移転したのは天保13年(1842)。


江戸切絵図 嘉永二年〜文久二年(1849〜62)

結城座と薩摩座で人形浄瑠璃芝居がやってたんよ。


拡大して 北↓ 南↑

姥ヶ池の隣に一ノ権現(いちのごんげん)とあり、お稲荷さんがいるのはわかるが、
フクジュインの名称は消えてしまっている。
どーでもいいけど二十三夜コンタラ堂というのが気になる。


 ☆追記の追記 
ネットで検索すると一ノ権現はお稲荷さんではなく、
浅草寺創始の3人のうち、土師氏つまり「土師真中知」権現で、
浅草寺の寺中寺院「顕松院」が祀っていたものらしい。
猫のあしあと さんによると、上記絵図上姥ヶ池の周囲に見える、
顕松院と醫(医)王院は、浅草寺宗徒12院に、
金剛院、覚善院、法善院そして妙音院は、浅草寺寺僧22ヶ院に含まれている。

廿三夜コンタラ堂は、検索すると、
月齢二十三夜の月を拝むと願いが叶うという「二十三夜講・二十三夜信仰」なるものあり。
コンタラ堂はひょっとしたら「こんから堂」が訛ったものではないかと。

 文化デジタルライブラリー 錦絵 こんから堂参詣

こんから堂とはこんがら童子を祀ったお堂?←完璧妄想
いずれにせよ「廿三夜」と「コンタラ堂」は別物のようだ。

目下のところ、憶測・妄想できるのはこのくらい。


江戸名所図 一権現祠・姥ヶ池 天保4〜7年(1834〜36)江戸三座猿若町移転前。

手前が一ノ権現の立派な社、奥に弁天があって、姥ヶ池。


姥ヶ池拡大。

葦だの蘆だの茅(ちがや)がボーボー生えていて、
海抜低そうだし、いかにも浅茅ヶ原っぽい。

追記オワリ。



2008年に姥ヶ池へ訪れた方の記事が面白いので勝手にリンクさせてくだせえ。
 ↓  石碑とお稲荷さんの様子が大分違う。
江戸東京紀行 浅草奥山の真骨頂 生き人形・姥ヶ池伝説の巻


姥ヶ池の権現さんとの関係は不明だが、橋場一丁目に福寿院という寺があるようだ。
 yahoo!ロコ 福寿院



さて、

姥ヶ池旧跡の傍らに助六の歌碑があった。 写真クリックで案内板拡大



助六にゆかりの雲に紫の 弥陀の利剣で鬼は外なり 団洲

助六といえば団十郎、江戸歌舞伎のイメージが強いが、
実在の助六は大坂の人で、新町の傾城総角(あげまき)と
大坂千日前で心中したのだよ。諸説あるみたいよ。助六 wikipedia

昨年12月に、大坂の助六『紙子仕立両面鑑』という文楽のお芝居を見たよん。
助六・揚巻の心中事件をめぐる、どんより重たい悲恋ものがたりと思いきや、
ふたりを取り巻く人々の、まさかのドタバタ喜劇で幕を閉じるという破天荒な芝居だった。
助六出てこないし。
最後は5人だったかの人形全員が舞台のあちこちで同時多発的にいろいろやらかすわけ。
人形5人てことは人形遣いが15人も舞台上でひしめき、複雑なドタバタを、
こんがらがらず齟齬をきたすことなく、ドタバタお芝居続行するわけよ。凄いのよ。
ほんで、いっぺんに全部は見られないからキョロキョロしていると、
それぞれの人形の行いの断片が目に飛び込んでくるわけよ。

鴨居に吊るされた紐が足に絡まって斜め逆さまになってもがく玉也さん。
ばあさん舐めてんじゃないわよとばかりに先陣切って紐を引っ張る簑一郎さん。
かっこよく「型」で殺陣を始めた筈がいつの間にかヘッドロックキメて
ムキになってぎゅーぎゅー締め上げている幸助さん。
ぎゅーぎゅーされてギブギブの紋吉さん。
頭から綿の入った駕籠を被せられて慌てる、誰だっけ。
綿帽子被っておしとやかにオタオタする清五郎さん。
正面に目を戻すとさっきの吊るされた人が大の字でこっち向いて揺れてる玉也さん。
順番が違ってるかもしれないけどこんなふうで、もー笑っちゃってたいへん。
面白かったから最後のところだけ床本写しちゃう。

「助六さん/\、どこにぢやいなア(中略)マアこちらへ」と手に手を取れば、
荒くれし手先に恟り(びっくり)
「ヤ誰じや」
「ヲゝおれぢやわいな」 
と抱き付く顔
「ヤア伝九郎め、アレエ/\」(暗がりで伝九郎が助六になりすましていた)
驚き駆け出る母親を
出さじと権八綿の楯
お松を引つ立て駆け行く伝九郎
戻りかゝつた栄三郎、出合ひ頭に
「伝九郎め逢ひたかつた」
と道ふさがれ
「南無三宝」
とお松を捨て、ひらりと抜き打ち、かい潜り抜身たぐつて山雀(やまがら)投げ
「しくじつたか」
と加勢の権八
帯に取り付く妙三が気転は下りたる八方の鎰(かぎ)に結び目、
親子して体をしづと引き上ぐれば
宙にぶら/\
「なう悲しや、こりや目が舞ふ」
と七転八倒
門には二人が揉み合ひ捻ぢ合ひ
内を気遣ふ栄三郎
隙間に遁れ逃げ出す伝九郎
「ヤア詮議のある奴、逃さじ」
と後を慕うて追ひかくる


これを千歳さんと富助さんで端正に大騒ぎ。
どんなにドタバタ芝居になっても義太夫も人形の動きも秩序を失わないから。
ていうふうにあたしには見えるし聴こえる。
そこが文楽の凄いところで好きなところなのよ。
ガッチリ基礎を固めているから無意識にできちゃうのだろうなあ。
若い人もベテランも、みんな凄いや。
面白かったな紙子仕立。もう一回見たいな、大阪でやらないかな。

・・・・・

あ〜〜また脱線して遊んじゃってトンチンカン言っちゃった。


姥ヶ池旧跡の碑のうしろがプチ浅茅ヶ原になっとりまして、

しゃがんで顔を近寄せれば、浅草浅茅ヶ原の湿地の雰囲気が味わえる。



以下参考いろいろ。

中尾和昇さん著 曲亭馬琴『敵討枕石夜話』考 PDF

 安達ヶ原の鬼婆の話と似ている。
 「椿説弓張月」も馬琴の作とは知らなんだ。


柳田國男 日本の伝説 青空文庫

 咳のおば様(昭和初期?) より

(前略)
浅草には今から四十年ほど前まで、姥が淵という池が小さくなって残っていて、一つ家石の枕の物凄ものすごい昔話が、語り伝えられておりました。浅草の観音様が美しい少年に化けて、鬼婆の家に来て一夜の宿を借り、それを知らずに石の枕を石の槌つちで撃って、誤ってかわいい一人娘を殺してしまったので、悲しみのあまりに婆はこの池に身を投げて死んだ。姥が淵という名もそれから起ったなどといいましたが、この池でもやはり子供の咳の病を、祈ると必ず治ると信じていたそうであります。これは竹の筒に酒を入れて、岸の木の枝に掛けて供えると、まもなく全快したということですから、姥神も、もとはやはり子供をまもって下さる神であったのです。(江戸名所記)
 何か必ずわけのあることと思いますが、姥神はたいてい水の畔ほとりに祀ってありました。

(後略)


鳥居フミ子さん著 「浅草観音縁起」と夢の趣向 PDF

明治二十三年四月市村座上演河竹黙阿弥作「一つ家」ってナヌーー!?
文楽の『花魁莟八総』や、馬琴の小説や歌舞伎の『南総里見八犬伝』よりも、
黙阿弥の歌舞伎『一つ家』ゆかりの池として記憶されているのだな、姥ヶ池は。


☆安達ケ原の黒塚伝説 神亀丙寅の年(726年)の頃 wikipedia黒塚
☆浅草浅茅ヶ原伝説 文明年間(1469〜87)の道興准后によって書かれた「四国雑記」に見える







 

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伊達娘恋緋鹿子 初演番付 : お七

浄瑠璃『八百屋お七恋緋桜』

浄瑠璃でもお七物の作品は多数あるが、もっとも影響が強かったのがお七の死の30数年後の正徳5年(1715年)から享保初年(1716年)ごろに成立した紀海音の『八百やお七』(『八百屋お七恋緋桜』)である。紀海音の浄瑠璃は西鶴の好色五人女を下地にしながらも大胆に変え、より悲劇性を強くしている。海音のお七では吉三郎は千石[29]の名の知れた武士の息子、親からは出家するように遺言され、親の忠実な家来の十内が遺言を守らせにくる。またお七にも町人万屋武兵衛が恋心を抱いている。火事の避難先の吉祥寺で出会ったお七と吉三郎の恋は武兵衛と十内の邪魔によって打ちひしがれ、再建した八百屋の普請代二百両をお七の親に貸し付けた武兵衛がそれの代わりにお七を嫁に要求し、家と親への義理の為お七は吉三郎に会えなくなる。西鶴が用意した吉三郎の八百屋への忍び込みを海音も用意はするが、海音作では下女のお杉の手引きで軒下に身を隠す吉三郎は、武兵衛との結婚を願う母親の話を聞いてしまいお七に会わないまま立ち去ってしまう。お杉の話で吉三郎とすれ違ってしまったことを知ったお七は、吉三郎に立てた操を破らなければならない定めに半狂乱になり、家が焼けたら吉三郎のもとにいけると火をつけてしまう。お七の処刑の日、両親は悲嘆にくれる。西鶴が出家させた吉三郎を、海音はお七の処刑の直前に刑場で切腹・自殺させてしまう。


浄瑠璃『伊達娘恋緋鹿子』

浄瑠璃では紀海音以降、『八百屋お七恋緋桜』に手を加えた作品が続出するが、安永2年(1773年)菅専吉らの合作で『伊達娘恋緋鹿子』が書かれる。『伊達娘恋緋鹿子』ではお七は放火はせずに、代わりに吉三郎の危機を救うため火の見櫓に登って半鐘を打つ。この菅専吉らの新機軸「火の見櫓の場」を歌舞伎でも取り入れて現代では文楽や歌舞伎では火の見櫓に登るお七が定番になっている。

  八百屋お七wikipedia より



     *******************************



安永二年 癸巳 四月六日 北堀江市の側芝居 豊竹此吉座 大坂

    太夫 豊竹若太夫
    座本 豊竹此吉

起請方便品
書置寿量品
 伊達娘恋緋鹿子 一部八巻

一の巻    豊竹入太夫
       豊竹杣太夫
二の巻    豊竹頼太夫
       豊竹時太夫
三の巻    豊竹房太夫
四の巻    豊竹綱太夫
   かけ合 豊竹此太夫
       豊竹君太夫 
       豊竹綱太夫
五の巻    豊竹八重太夫
六の巻    豊竹綱太夫
       豊竹君太夫
七ノ巻    豊竹佐太夫
   みち行 豊竹時太夫
       豊竹入太夫
八ノ巻    豊竹此太夫


摂州合邦辻 (同時上演)
上    口 豊竹志摩太夫
     奥 豊竹房太夫
       豊竹杣太夫
     切 豊竹頼太夫
下    口 豊竹八重太夫
     中 豊竹頼太夫
     切 豊竹此太夫

三味線    鶴沢寛治
       鶴沢十三郎
       鶴沢彦三郎
       大西きく松
       鶴沢もり吉
       鶴沢甚五郎
       鶴沢三二

高しまさもんの介   豊松元五郎
小僧弁長       豊松大治郎
神主もとめ      泉井平三郎
てつち原作      豊松弥三郎
さゝ尾ぎん右衛門   吉川介五郎
名主与三右衛門    花房宗十郎
代官長芝栄蔵     豊松大治郎
家主ふく介      若松友五郎
近江屋太左衛門    豊松国八
亭主角兵衛      泉本太五郎
なるしまかげゆ    萩野吉十郎
しおくりぶいち    松本久治郎
ほしづか軍右衛門   花房宗十郎
すゝき甚太夫     笠井乙五郎
家主女房おくに    若竹三重郎
けいせい吉さと    若竹東蔵
けいせい花ぞの    若竹栄蔵
甚太夫娘おひな    藤井弥八
八百屋下女すぎ    若竹三重郎
源治兵衛女房お町   豊松重五郎
吉祥院        豊松弥三郎
小姓吉三郎      豊松国八
よろづや武兵衛    萩野平重郎
八百屋娘お七     豊松重五郎
同 久兵衛女房    若竹三重郎
わたなべはいと    笠井音五郎
とくら十内      豊松元五郎
安もり源治兵衛    豊松弥三郎
八百屋久兵衛     若竹友五郎

かけはしつしよふ   花房宗十郎
つぼ井平馬      吉川助五郎
治郎まる       萩野平十郎
高やす左衛門     豊松弥三郎
合邦女房       豊松友五郎
奴入平        豊松国八
女房おらく      若竹栄蔵
あさかひめ      若竹三重郎
玉手御前       豊松重五郎
はびきの       若竹三重郎
俊徳丸        豊松元五郎
ちからのすけ     若竹友五郎
合邦         豊松弥三郎
       
       (芸大カード)


〇『邦』では「摂州合邦辻」を二月五日、「伊達娘恋緋鹿子」を四月六日としてそれぞれ一項目を立てる。これはそれぞれの正本の刊記によったものであろう。

〇『外・安』には「摂州合邦辻 安永二巳年二月五日 綱太夫出座」「起請方便品 書置寿量品 伊達娘恋緋鹿子 同(安永二)年四月六日 此節麓太夫退座 君太夫出座」と。

〇「芸大カード」の番付と二月の興行時に引用した『系』の記事とは、綱太夫の「摂州合邦辻」下の巻出演のほか、太夫の持場など多少の相違がある。『系』は「伊達娘恋緋鹿子」について此太夫・麓太夫の条のごとく「四月六日より」としている例もあるが、これは正本によったものであろう。

〇愛媛大学蔵、西沢・今井・前川・玉水版七行本は、題簽・内題ともに「起請方便品 書置寿量品 伊達娘恋緋鹿子」。題簽の外題下に「豊竹若太夫直伝 玉水源治郎新板」、内題下に「座本豊竹此吉」、末尾に「安永弐癸巳年卯月六日」「作者管専助 松田和吉 若竹笛躬(ふみえ:コトバンク)」、奥に版元名がある。四の巻に此・君・綱の掛合が示されている。京大図蔵七行正本(題簽・奥欠)は七の巻「道行浮名の八景」にも〇と二人の印で掛合を示す。

〇「芸大カード」に「(摂州合邦辻)恋緋鹿子ノ番付ノ前ニ小サク出ヅ。此ノ時迄続ケシモノカ」とある。よって「摂州合邦辻」と「伊達娘恋緋鹿子」の順序を入替えて掲げた。なお、二月に掲げた『邦』による「摂州合邦辻」と、この時の「芸大カード」による「摂州合邦辻」とは「下口」の「八重太夫」と「八予太夫」をのぞき全く一致する。

  義太夫年表近世篇第一巻 p449



        *************************



八百屋お七  ‖怯昔恋江戸染 そのむかしこいのえどぞめ

天人に似た美女と評判の八百屋の娘お七は、吉祥寺の寺小姓吉三郎と恋仲にあるため、範頼公への妾奉公を嫌がり、逃げる(「吉祥寺」)。吉三郎が今宵中に剃髪出家すると聞き、気の動転したお七は、夜になって閉ざされた木戸を開けてもらいたい一心で、櫓に登り太鼓を打つ(「八百屋」)。仁田(にたんの)四郎の温情ある取り調べにもかかわらず、お七は死罪と決まるが、鈴ヶ森で処刑の寸前に赦免される。

『天和笑委集(てんなしょういしゅう)』や『近世江都著聞集(きんせいえどちょもんしゅう)』などに見える実説によると、天和二年(1682)十二月二十八日の江戸大火で類焼し、旦那寺(駒込正仙寺、一節に円乗寺とも)に避難した本郷の八百屋娘お七(?〜1683)は、寺小姓生田庄之助(一説に山田左兵衛)と恋仲になった。新築の家に帰宅後、火事があればもう一度庄之助に会えると思い込んだお七は、翌年三月二日夜に放火するも、すぐに消し止められ、捕えられて引き回しのうえ同月二十九日に鈴ヶ森の刑場で火刑に処せられた。この事件は貞享三年(1686)、まず井原西鶴の『好色五人女』巻四「恋草からげし八百屋物語」に、八百屋の娘お七と寺小姓吉三郎との恋物語として脚色され、元禄年間にはさまざまな歌祭文に歌われて流行した。歌舞伎では宝永三年(1706)正月大坂初演の吾妻三八作『お七歌祭文』が最も古く、このとき初代嵐喜世三郎がお七を演じて大当りをとる。浄瑠璃では『八百屋お七』『潤色江戸紫』『伊達娘恋緋鹿子』等が書かれ、江戸歌舞伎では蘇我の世界に結びつけられて、お七吉三郎の一系統を形成した。『其往昔恋江戸染』は、明和三年(1766)の鈍通与三兵衛ほか作『八百屋お七恋江戸染』を初代桜田治助が改訂した安永七年の同題狂言をさらに改作したもの。

吉祥寺の欄間の天人像をはずしてお七がそこへ身を隠す趣向は「天人お七」と呼ばれ、のちに河竹黙阿弥の諸作品に利用されている。また櫓にのぼって太鼓を打つ趣向は、安永二年初演の菅専助作の浄瑠璃『伊達娘恋緋鹿子』で、お七が放火するかわりに火の見櫓の半鐘を打つとした趣向の応用で、人形振りで演じられる。江戸時代の芝居関係者は火を特に忌んだため、このような火事の象徴物を用いる演出が工夫されたのである。お七の衣裳は「丸に封じ文」の紋をつけるが、これはお七役を得意とした初代嵐喜世三郎の定紋が転化したもの。また五代目岩井半四郎がお七を演じた際、着付けに用いた浅葱麻の葉鹿の子の模様は、「半四郎鹿の子」と呼ばれ、江戸の女性たちの間で大流行した。

文化六年(1809)三月江戸森田座で初演。『松竹梅湯島掛額・しょうちくばいゆしまのかけがく』、通称「八百屋お七」「天人お七」。作者は福森久助。影響作に河竹黙阿弥の『三人吉三廓初買』や『吉様参由縁音信(おとずれ)』、『松竹梅雪曙』がある。



八百屋お七 ◆‐消歿濱秉譟,靴腓Δ舛ばいゆきのあけぼの

通称「櫓のお七」。人形浄瑠璃『伊達娘恋緋鹿子』を歌舞伎の人形振りの演出で脚色したもの。歌舞伎の女形の人形振りを代表する作品の一つ。安政三年(1856)江戸市村座『松竹梅雪曙』で四代目市川小団次が初演。黄八丈の衣裳を引き抜くと段鹿の子の振袖になり、黒子の後見が二人ついて人形振りになる。義太夫の三味線の「櫓三重」の軽快なリズムで結綿の髪を振り乱して踊るところが眼目。雪の降りしきる中、櫓の太鼓を打つために梯子を登ろうとして滑り落ちたところで人形振りから人間に戻る演出。


  歌舞伎登場人物事典 p789〜







 


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一谷嫩軍記 初演番付

並木宗輔の作。三段目の切は特に『熊谷陣屋』(くまがいじんや)と通称される。ただし宗輔はこの作の三段目までを執筆して病没したので、浅田一鳥らが四段目以降を補って上演した。版行された浄瑠璃本には、作者として浅田一鳥・浪岡鯨児・並木正三・難波三蔵・豊竹甚六の連名のあとに、「故人」として並木宗輔の名が最後に記されている。

 wikipedia より 



宝暦元年辛未(1751)

未ノ十二月十一日より 豊竹座 大坂 
                   座本 豊竹越前少掾
                   太夫 豊竹筑前少掾

さゞ波やしがの都はあれにしを昔ながらの山桜かな 不知読人(よみびとしらず)

 一谷嫩軍記 五段続

此花江南所無也(このはなこうなんのしよむなり) 
一枝於折盗之輩者(いつしせつとうのともがらにおいては)
任天永紅葉之例(てんゑいかうようのれいにまかせ) 
伐一枝可剪一指(いつしをきらばいつしをきるべし)   弁慶執筆

初段  大序  豊竹友太夫
     中  八重太夫事 豊竹時太夫
    切口  豊竹筑前少掾 
     詰  豊竹鐘太夫
二段目  口  豊竹信濃太夫
     次  豊竹若太夫
    切口  豊竹時太夫
     詰  豊竹駒大夫
三段目  口  豊竹阿蘇太夫
     次  豊竹信濃太夫
    切口  豊竹友太夫
     詰  豊竹筑前少掾
四段目 道行  豊竹駒大夫
     ツレ 豊竹時太夫
     口  豊竹阿蘇太夫
    切口  豊竹鐘太夫
     詰  豊竹若太夫
五段目     豊竹阿蘇太夫

三味線     鶴沢三二
        鶴沢名八
        鶴沢十次郎
        鶴沢五七
        鶴沢政四郎
        鶴沢万五郎

源よりとも     若竹友五郎
源よしつね     豊松弥三郎
平大なごん時忠   豊松門十郎
平のつねもり    若竹伊三郎
無官太夫敦盛    若竹清五郎
みだい藤の方    藤井小三郎
きくのまへ     藤井小八郎
かぢわら平治かげ高 豊松裕次郎
平山むしや所    山本彦五郎
成田五郎      豊松裕次郎
大だちけんば    豊松文次郎
きやうのきみ    藤井小四郎
玉おりひめ     藤井小八郎
うらば       豊松弥三郎
そめぎぬ      藤井新十郎
まきのを      豊松門十郎
くまがへ次郎直実  若竹東工郎
同 小次郎なをいへ 若竹伊三郎
太子平       浅田文右衛門
茂次兵衛      豊松藤四郎
下男彦介      豊松久四郎
ばんばの忠太    豊松勘三郎
すのまたうん平   土佐幸五郎
庄屋孫作      若竹清五郎
さめが井兵太    若竹友五郎
つゝみのぐんぢ   山本彦五郎
やつこ作蔵     豊松源三郎
やつこ弥嘉内    豊松八十五郎
たご平母はやし   藤井小三郎
つぼね       福島市之丞
小ゆき       藤井新十郎
下女いわ      豊松半七
たいこ侍      柏井伝三郎
びやくかうのみだ六 若竹伊三郎
さつまの守忠のり  豊松弥三郎
けいせいすがはら  藤井小三郎
ゐんきよ楽人斎   若竹東工郎
くまがへ女台さがみ 藤井小八郎
おかべの六弥太   豊松藤五郎
頭取        豊松藤五郎
          藤井小八郎
頭取        若竹東工郎
          藤井小三郎


○翌二年盆に、操踊を切につけているので、翌盆後まで続演されたと推定できる。

○京大図蔵の七行正本、十行正本には奥に「作者浅田一鳥 浪岡鯨児 並木正三 難波三蔵 豊竹甚六 故人並木宗輔」、本文末に「宝暦元辛未天臘月十一日」とある。但し十行本は享和二年九月の再版本。『外・寛』には「作者浅田一鳥 古人並木宗助」とのみあり。

○包紙に太夫名があるが、番付と一致しない。

○『外・宝』には「並木荘助名残作/未申の盆より切ニ踊/此時出勤の衆 八重太夫時太夫ト名改筑前掾駒太夫阿曽太夫友太夫若太夫鐘太夫信濃太夫以上八人今度より出座」とある。『古今外題年代記』もほゞ同文。

○『系』の豊竹若太夫、豊竹鐘太夫、豊竹駒大夫、豊竹八重太夫、豊竹友太夫、豊竹阿蘇太夫、豊竹信濃太夫、豊竹筑前少掾の条にはこの興行に触れ、その持場は番付と矛盾しない。

○『譜』は初日の日付に一日のずれがあり、
「宝暦元年辛未十二月十二日初日/一谷嫩軍記/五段続 此時豊竹八重太夫時太夫と改名、後の此太夫是也。此新浄瑠璃古人並木宗輔三段目迄作置しを四段目をつゞり出す。

 一谷嫩軍記 五段続
初段     大序 豊竹筑前少掾
        中 同 信濃太夫
        切 同 鐘太夫
弐段目     口 同 時太夫
        奥 同 島太夫
        中 同 友太夫 
        切 同 駒大夫
三段目     口 豊竹阿曽太夫
        奥 同 友太夫
        中 同 鐘太夫
        切 同 筑前少掾
四段目    道行 同 鐘太夫
          同 信濃太夫
        口 同 駒太夫
        中 同 阿曽太夫
        切 同 若太夫
五段目       豊竹時太夫

此浄瑠璃古今の大入にて、翌年申の盆より大切に操り踊りを附る。」とあって、番付と合致しない部分が多い。

○『系』の豊竹八重太夫の条には「豊竹時太夫と此時改名して」とあり、豊竹友太夫の条には「是より退座有て西京へ出勤され」とある。

○『義太夫執心録』には「宝暦元未年 新浄留梨 一谷嫩軍記  二段目口 組打 若太夫 切 流し枝 駒太夫 三段目 熊谷物語 大切まで 筑前掾 右いつれも大当り/\ 四段目若太夫なれども作者替ればさのみ評判なし」とある。

○『系』の若竹東工郎の条には、「此時熊谷物語を遣ひ切る」とあり、富沢万五郎の条には「是迄野沢万五郎にて勤る」とあり、また「此芝居にて鶴沢三二退座致す」とある。

○『義多百贔屓』には「上上吉 一谷嫩軍記/[杢]並木宗助名残の作て先は福りんとう故評を略しました・・・・・熊谷が女房陳所へ尋来る所かんしん/\」とあり、『女大名東西評林』の豊竹駒太夫の条には「別して一の谷の二段目忠度卿太刀おつ取て突立上りの矢声諸見物耳を貫く大当り」とある。

○石割松太郎『邦』書入れに「一の谷嫩軍記くまのぶし兵庫口説さくらづくし大当り」とある。


 義太夫年表近世篇第一巻 p226



 ☆以下オマケ

この年 肥前座 江戸

 親鸞聖人絵伝記

  **************

○この年 北堀江あみだヶ池門前にあやつり新芝居始る。
「今年よりあやつりを木戸銭十文にて見せ十七太夫淀太夫信濃太夫など出勤是より浄瑠璃の風義衰へ初ム」(摂陽奇観)。

○二月六日 江戸肥前座 類焼。『義太夫執心録』に「其年二月六日の類焼に」とある。春の「源平布引滝」の記事参照。

○七月二十六日 肥前掾病身のため、弟伊勢太夫に名題譲渡し芝居相続の願の訴訟。(略)

○並木宗輔没。死没の月日未詳。『並木正三一代噺』には「然るに宗助、当十一月中旬一谷嫩軍記の三だんめを書ながら病死いたし」とある。『摂陽奇観』に「作者並木宗輔死、並木氏の元祖にて千柳と号ス是より作者の苗氏ニ多ク用ゆ 紀海音 千前軒 文耕堂 千柳 右四人浄瑠璃作者の四天王なるよし戯財録ニ記ス今年一谷嫩軍記三齣(こま)を生涯の絶筆として惜ムべし黄泉の旅客と成れり」とある。『系』に「並木宗輔宝暦元年辛未十二月一の谷嫩軍記三段目迄成就して病気に成是を名残りと黄泉へ趣く」とある。『声曲類纂』に「寛延二年九月終れり」とあり、『名人忌辰録』には「寛延三年巳九月七日没す歳五十七」とある。
浄瑠璃全盛期の竹本・豊竹両座の作者として、数多く名作を生み出す中心的役割を果した。初作の「北条時頼記」(享保十一年)以来「一谷嫩軍記」の絶筆まで、およそ四十数作を残す。

○十二月十七日 辰松八郎兵衛弟子六三郎を後家よふの養子にし、三代目襲名の上芝居相続願出の訴訟。

 (後略) 義太夫年表近世篇第一巻p227〜





 
 


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