妄想オムライス
床下は骨伝導 ワ((゚゚дд゚゚ ))ワワ !!!!!



義経記の前九年の役
吉次が奥州物語の事

(前略)しかし遮那王殿は心中、此奴であろう、あの評判の高い黄金商人の吉次とかいう者は。きっと奥州の事情はよく知っているであろう。この男に尋ねてみようとお思いになり、「陸奥というのは、どれくらい広い国か」とお問いになる。「非常に大きな国でございます。常陸国と陸奥との国境は、菊田の関といい、出羽と奥州との国境は、伊奈(いなむ)の関と申します。その関から内部は五十四郡と申しております。たとえば陸奥・出羽両国と申します場合は、出羽国十二郡をも総括して、両国合わせて六十六郡でございます」と言う吉次の言葉に、遮那王殿が「その中で、源平の間に戦乱が起こった場合、合戦に役立つ者はどれほどいるであろうか」とお問いになると、「欧州の国々の事情は、吉次がよく知っております」と、つぎのように話し始めた。


「むかし両国の大将軍をば、をかの大夫(たいふ)とぞ申しける。彼が一人の子あり。安倍権守と申しけづ。子供あまた候ひけり。嫡子厨川次郎貞任、次男鳥海三郎宗任、家任、盛任、重任とて、六人の末子に、境冠者良増とて、霧を残し、霞を立て、敵の起こるときは、水の底、海の中にて日数を尽す曲者なり。これら兄弟、丈せい骨柄人にも越えて、貞任が丈高さは九尺三寸、弟の宗任は八尺五寸、いづれも八尺に劣るはなし。中にも境冠者良増は、丈の高さ一丈三寸候ひけり。

安倍権守の世までは、宣旨、院宣にも畏れ参らせ、毎年に上洛して、逆鱗を休め奉り、安倍権守死去の後は、宣旨を背き、偶々院宣なる時は、北陸道七か国の片道を給はりて、上洛仕るべき由申しければ、片道給はるべきにてありけるを、公卿僉儀(詮議)ありて、『これは天命を背くにこそ候へ。源頼義(みなもとのらいぎ)勅宣を承つて、十二万騎の軍兵を率して、安倍を追討の為に、陸奥(みち)の国へ下り給ふ。

駿河の国の住人高橋大蔵大夫に先陣をさせて、下野の国いりふちと申す所に着き給ふ。貞任これを聞きて、厨川の城(じやう)を去つて、阿津賀志(あつかし)の中山を後ろにあてて、安達の郡(こほり)に木戸を立て、行方(ゆきかた)の原に馳せ向かひて、源氏を待つ。

大蔵大夫大将として、五万余騎白河の関を打ち越して、行方の原に馳せ着き、貞任を攻む。その日の軍(いくさ)に安倍、こ脆く打ち負けて、浅香の沼へ引き退く。伊達の郡阿津賀志の中山に引き籠る。源治は信夫の里、摺上川(するかみかは)の端、はややしろといふ所に陣を取つて、七年互ひに戦ひ暮らす。

源氏の十一万騎も皆討たれて、叶はじとや思しけん、頼義上洛して内裏へ参り、『頼義叶ふまじく候』と申されければ、『汝叶はずは、代官を下して、急ぎ追討せよ』と重ねて宣旨下りければ、急ぎ六条堀川の宿所に帰りて、十三になり給ひける子息を大内へ参らせ給ふ。

『汝が名をば何といふぞ』と御尋ねありけるに、『辰の年の辰の日の辰の時の生(む)まれて候ひけるとて、名をばぐはつた』と申したりければ、『無官の者の合戦の大将する例なし。元服させよ』とて、後藤内則明(ごとうないのりあきら)差し添へられて、八幡へ参らせ、元服させて、八幡太郎義家と号せさす。その時内裏より賜りたる鎧をこそ、ぐはつたが産衣(うぶきぬ)と申しけれ。

秩父十郎重国が先陣を賜りて、奥州へ打ち下り、阿津賀志の城を攻めけるに、なほ源氏打ち負けて、事悪しかりなんとて、急ぎ都へ早馬をたて、この由を申さければ、年号が悪しければとて、康平元年と崇めらる。

同じき年の四月廿一日、伊奈(いなむ)関を攻め越して、最上(もがみ)の郡に籠る。源氏続いて攻め給ひしかば、おからの中山を打ち越えて、仙北(せんぷく)金沢に引き籠る。

それにて一両年を送りて戦ひけれども、鎌倉権五郎景政・三浦平太為継(ためつぎ)、大蔵大夫光任、これらが命を棄てて攻めけるほどに、金沢の城をも追ひ落されて、白木(しろき)山にかかりて、衣川の城に籠る。為継、景政重ねて攻めければ、厨川ぬかふの城へ移る。

康平二年六月廿一日、貞任大事の手負ひて、梔子(くちなし)色の衣(きぬ)着て、磐手(いはで)の野辺にぞ伏しにける。弟の宗任降人(かうにん)たり。境冠者をば、後藤内が生け捕りて、やがて斬られぬ。

義家都へ馳せ上り、内裏(うち)の見参に入りて、末代までの名をあげ給ふ。その時奥州へ御共申し候ひし、三浦少将に十一代の末、淡海公の後胤、藤原清衡と申す者、国の警護に留められて候ひけるが、亘理の郡にありければ亘理権太清衡と申すは、両国を手に握つて、党十四、党以下(いげ)の弓取五十万騎、秀衡が伺候(しこう:側近く仕える家来)の郎等十八万騎持ちて候。これこそ源氏の乱(みだれ)出で来たらば、御方人(かたうど:味方)ともなりぬべきものにて候」とぞ申しける。


遮那王殿は、この吉次の話をお聞きになって、かねがね噂に聞いていたのと少しも違わず、秀衡は威勢のある者であることよ。ああ、何とかして奥州に下りたいものだ。(後略)


 小学館 新編日本古典文学全集62 義経記 巻第一より p35〜

 2014年12月13日読む








 

web拍手 by FC2

奥州安達原 / comments(0) / trackbacks(0) / オムライス /
安倍貞任
『陸奥話記』「〔二九〕貞任、捕えられ、将軍の眼前で絶命す」

貞任、剣を抜きて官軍を斬り、官軍、鉾を以て此を制す。大楯に載せて、六人して之を舁(か)く。其の長は六尺有余、腰囲(えうゐ)は七尺四寸。容貌は魁偉にして、皮膚は肥白なり。将軍、罪を責め、貞任、一面して死せり。

又、弟の重任を斬る。字(あざな)は北浦六郎なり。但し宗任は自ら深泥に投じて逃れ脱(に)げて已(すで)に了(をわ)んぬ。


『朝野群載』所蔵の康平七年(1064)三月二十九日「太政官符」に

仰宗任破衣河関之日、去鳥海之楯、籠兄貞任嫗戸之楯、相合合戦、然而貞任等被誅戮(ちゅうりく)間、被る疵迯脱(とうだつ?)、其後棄二|抛兵仗、合掌請降、即跪陣前前悪

と負傷して脱出し、その後降参したことが記されている。



 小学館 日本古典文学全集41 P175

 2014年12月7日読む







 

web拍手 by FC2

奥州安達原 / comments(0) / trackbacks(0) / オムライス /
宗任の墓
鳥海柵の主・安倍宗任 PDF に宗任の墓の写真が載っており、
墓は福岡県宗像市大島安昌院にあるという。

ほんじゃ行ってみよー。

博多からJR鹿児島本線の小倉方面行に乗り、



東郷下車。


東郷駅北口から1か1-2系統の神湊(こうのみなと)行きバスに乗り、

東郷駅〜神湊 バス時刻表


終点の神湊渡船ターミナルへ。



大島行きフェリーに乗って、

大島渡船運航時刻表


うわあああ揺れるよ〜〜〜海が凹んでは盛り上がるよ〜〜〜

横に大揺れ〜〜〜


大島に着いたよ〜〜

吐きそう。


大島港フェリーターミナルから町中へ入って突き当りを右へ。

右へ曲がる前にターミナルを振り返ったところ


突き当って右を向いたところ

これをずっと行って、


安昌院への看板を左折。



安昌院と思われる階段を左手に見ながら、様子を見るため通過。

左を見たまま進むと、


お、



あの石塔!

を横目で見ながらもう少し歩くと、


看板出現。何て書いてある?



 !



 !!!



宗任さん、会いに来ましたよ。

手を合わせるのも忘れ、思わず墓石を撫でる。
自分でもなんでかわかんないけど、とにかく撫でて撫でて撫でまくる。
 でもまあ冷たい手じゃの  ←正しくは「テモマア冷たいほでぢや」
権太の愛情いっぱいの仕草を思い出しながら。


安倍統祖神儀



文政七 と読める。

この墓石は文政七年に再建されたもので、古塔が別にあるらしい。
古塔は砂岩製の五輪塔で、ひとつの石から彫り出されたものだそうだ。


これも五輪塔の形式なのだろうか。



法名は「安昌院殿海音高潮大居士」だそうです。

奥州から遠く筑紫に流され、海の男になった宗任。

しかし、
そもそも安倍氏の祖先は九州の一族だったという話もあって、
ならば宗任は流されたのではなく故地に帰還したのだとも言える。


太古の昔、日本の山間部には阿曾部(あそべ)族が、海辺には津保化(つぼけ)族が居た。そのころ筑紫には猿田彦族が住んでいたが、南蛮から海を渡ってやって来た日向族に筑紫地方を乗っ取られてしまった。日向族は勢いに乗じて次々と周辺の国を滅ぼしながら北上し、近畿地方の邪馬台国(北九州にあったとする説もある)に攻め寄せた。このとき邪馬台国を治めていたのが安日彦(あびひこ)と弟の長髄彦(ながすねひこ)で、長脛彦は戦死、兄の安日彦は一族を連れて北へと敗走する。北の国(一説には津軽地方)の阿曾部と津保化は安日彦一族を受け入れ、安日彦は持参した稲を用いて稲作を行い定住し、いつか日向族から邪馬台国を奪還しようと画策しているうちに、阿曾部族や津保毛族と混血・同化していった。そうして生まれたのが荒吐(あらはばき)族である。荒吐族は安日彦を先祖に持つことから別名安倍族とも称した。荒吐すなわち安倍族の国の中心地は平泉で、代々安東が治めた。この豊穣の国は大和国に優り栄え、誰も犯すことはできなかった。総主安東の日下(くさか)将軍安倍頼時の子貞任の代になるまでは。

 参考:菊地敬一著 北天の魁 -安倍貞任伝-


関心はもちろん安倍氏がどこから来たのかにあるのだけど、
邪馬台国が大陸から来た日向族に滅ぼされ取って代わられたというのが
事実だとしたらカルチャーショック。
そのまま外人が大和朝廷を成立させたってこと? え゛〜〜〜
日向族の古代から東北は征服・収奪の標的として虎視眈々と狙われ続けていたのか。
東北の良馬がなけりゃ武士は戦ができないし、GOLDがいっぱい採れたというし。
会津磐梯山は宝の山よ。



奥の両脇に並ぶのは宗任の親族の墓石だろうか。




玄界灘と響灘の境界線がはっきりとしないのだけど、

宗任はどうやら響灘越しに、

微妙に奥州の方角を向いて立っているようだ。


安昌院境内からの眺望






安倍 宗任 (あべ の むねとう)は、平安時代中期の武将。陸奥国の俘囚の長とされる豪族、安倍氏の安倍頼時の子。鳥海柵の主で、鳥海三郎とも呼ばれる。嫡妻であった清原氏の子として嫡子格の地位にあったと推察されている。

奥州奥六郡(岩手県内陸部)を基盤とし、父・頼時、兄・貞任とともに源頼義と戦う(前九年の役)。一族は奮戦し、貞任らは最北の砦厨川柵(岩手県盛岡市)で殺害されるが、宗任らは降服し一命をとりとめ、源義家に都へ連行された。その際、奥州の蝦夷は花の名など知らぬだろうと侮蔑した貴族が、梅の花を見せて何かと嘲笑したところ、「わが国の 梅の花とは見つれども 大宮人はいかがいふらむ」と歌で答えて都人を驚かせたという。(『平家物語』剣巻)

四国の伊予国に流され、現在の今治市の富田地区に3年間居住し、その後少しずつ勢力をつけたために、治暦3年(1067年)に九州の筑前国宗像郡の筑前大島に再配流された。その後、宗像の大名である宗像氏によって、日朝・日宋貿易の際に重要な役割を果たしたと考えられる。また、大島の景勝の地に自らの守り本尊として奉持した薬師瑠璃光如来を安置するために安昌院を建てた。そして、嘉承3年(1108年)2月4日に77歳で亡くなった。


子供・子孫の行方

長男・安倍宗良
宗良は大島太郎・安倍権頭として、大島の統領を継いだ。その子孫の安倍頼任は、九州の剣豪として知られ、秋月氏に仕え、剣術流派・安倍立剣道を開いた。

次男・安倍仲任
仲任は、薩摩国に行ったとされる。

三男・安倍季任
季任は肥前国の松浦に行き、松浦氏の娘婿となり松浦三郎大夫実任と名乗る。その子孫は北部九州の水軍松浦党を構成する一族になったともいわれている。

子孫
松浦実任(安倍季任)の子孫の松浦高俊は、平清盛の側近で平家方の水軍として活躍し、その為、治承・寿永の乱により、現在の山口県長門市油谷に流罪となった。その後、高俊の娘が平知貞に嫁ぎ、源氏の迫害から逃れる為に安倍姓を名乗った。その子孫とされる著名人に政治家の安倍晋太郎・安倍晋三親子がいる。安倍晋三は内閣総理大臣にまでなった。

wikipedia安倍宗任 より抜粋




フェリーターミナルから宗任の墓への道 (━赤い線━)


☆安昌院の階段を上り正面に本堂を見て敷地を右へ抜けても墓へ行けるが、
 本堂の棟続きに住居になっているようなので通り抜けは憚られた。

 



 宇治拾遺物語  二 頼時が胡人(こひと)見たる事

今は昔、「胡国(ここく)といふは唐よりも遥かに北と聞くを、陸奥(みちのく)の地に続きたるにやあらん」とて、宗任法師とて筑紫にありしが語りけるなり。

この宗任が父は頼時とて、陸奥の夷(えびす)にて、おほやけに随ひ奉らずとて、攻めんとせられける程に、「いにしへより今にいたるまで、おほやけに勝ち奉る者なし。我は過たずと思へども、責をのみ蒙れば、晴(はる)くべき方なきを、奥地より北に見渡さるる地あんなり。そこに渡りて有様を見て、さてもありぬべき所ならば、我に随ふ人の限りを、みな率(ゐ)て渡して住まん」といひて、まづ舟一つをととのへて、それに乗りて行きたりける人々、頼時、厨川の二郎、鳥海の三郎、さてはまた睦ましき郎等ども廿人ばかり、食物、酒など多く入れて、舟を出(いだ)してければ、いくばくも走らぬ程に、見渡しなりければ渡りけり。

左右は遥かなる葦原ぞありける。大きなる川の湊を見つけて、その湊にさし入れにけり。「人や見ゆる」と見けれども、人気もなし。「陸(くが)に上(のぼ)りぬべき所やある」と見けれども、葦原にて、道踏みたる方(かた)もなかりければ、「もし人気する所やある」と、川を上りざまに七日まで上りけり。それがただ同じやうになりければ、「ああさましきわざかな」とて、なほ廿日ばかり上りけれども、人のけはひもせざりけり。

三十日ばかり上りけるに、地の響くやうにしければ、「いかなる事のあるにか」と恐ろしくて、葦原にさし隠れて、響くやうにする方(かた)を覗きて見ければ、胡人とて絵に書きたる姿したる者の、赤き物にて頭結ひたるが、馬に乗り連れてうち出でたり。「これはいかなる者ぞ」と見る程、うち続き、数知らず出で来にけり。

川原のはたに集り立ちて、聞きも知らぬ事をさへづり合ひて、川にはらはらとうち入れて渡りける程に、「千騎ばかりやあらん」とぞ見えわたる。これが足音の響にて、遥かに聞えけるなりけり。徒の者をば、「ただ徒渡(かちわたり)する所なめり」と見けり。三十日ばかり上りつるに、一所も瀬なかりしに、「川なれば、かれこそ渡る瀬なりけれ」と見て、人過ぎて後にさし寄せて見れば、同じやうに、底ひも知らぬ淵にてなんありける。馬筏(うまいかだ)を作りて泳がせけるに、徒人(かちびと)はそれに取りつきて渡りけるなるべし。なほ上るとも、はかりもなく覚えければ、恐ろしくて、それより帰りにけり。さていくばくもなくてぞ頼時は失せにける。

されば胡国と日本の東の奥の地とは、さしあひてぞあんなると申しける。

 ☆胡人=北狄の人。中国古代の北方騎馬民族。
『今昔』では「胡国の人ヲ絵ニ書タル姿シタル者ノ様ニ」とする。



小学館 新編日本古典文学全集50 宇治拾遺物語 巻第十五より  p462〜 


中津宮から沖津宮遙拝所への道 へつづく





 

web拍手 by FC2

奥州安達原 / comments(0) / trackbacks(0) / オムライス /
環の宮明御殿にて白梅の枝を差し出す
『奥州安達原』環の宮明御殿の段で則氏が、則氏は実は兄キの貞任なのに、これまた実は弟の宗任がなりすましている南兵衛に向かって、こう言う。あ〜ややこしや。


「よし手練はともあれ、たとへ真の宗任なりとも、匹夫下郎に等しき男、
大望の企て思ひもよらず、奥州の果に生まれ、草木の名も知らぬ鹿(しし)猿同然の族。
かく言ふが無念ならばコレ、この花の名を知りつるか」

と白梅取つて差し出し

「東夷(あずまえびす)の目にはよも知るまじ、知つたらば言ふて見よや」

と嘲弄ある

宗任ぐつとせき上げ

「南兵衛といふ下郎でござれば、花の名は如何にも存ぜぬ、
しかし、さうおつしやる則氏卿も、以前は流し者に合ふて配所の島守、
やうやうこの頃召し返され、冠装束かけたればとて、正真の山猿の冠、
相手になる口は持たぬ、身が返答はコレこう」

と、傍に立つたる件の矢の根口にくはへて我と我が、肩口つんざく血潮の紅、
何かはあやもしら旗に鏃の筆にさら/\と、文字鮮やかに染めなすは、
東夷の名にも似ぬ三十一文字の言の葉に、座も白梅の枝折つて冠傾き、見えけるが

「ムゝ詞争ひ無益(むやく)しと、和歌を以ての返答、

『我が国の、梅の花とは見たれども、大宮人はいかゞ言ふらん』

ホゝウ、面白し/\、我に歌を詠みかけしは、返歌せよとのことならんさりながら、
最前汝が言ふ如く、この則氏は父の卿諸共、幼少より島へ赴き、鄙に育ちし恥づかしさ。
雲の上に座を列ねながら、我さへも得詠まぬ歌を、かく即席に詠み叶へし器量骨柄、
問ふに及ばず安倍宗任に違ひなし、ア云はれぬ歌で蛙(かわず)は口から、
我とわが手に白状せし、浅はかさよ」

と一言に、勝色見する梅花の頓智・・・



よーするに貞任の則氏が南兵衛に向かって白梅の枝を差し出し「どうせあんたなんか田舎者だから、都にいっぱい生えていて貴族や京の住民にはお馴染みのこの花の名前とか知らないでしょ、ダッサー。やーいやーい田吾作やーい、おまえのかあちゃんでべそ」と馬鹿にすると、宗任の南兵衛はその侮辱に対して歌を詠んで返し、教養のあるところを見せつけるという、カッコイイというか、宗任は自らの肩を鏃で突いて流れ出た血でもってさらさらと白旗に歌を書くのだから、過激カッコイイ件り。岩手がでべそかどうかは知らない。なんつって、貞任も宗任も自分らの母親のおへそには言及していないが、ここの挿話のもとになった話を安直に検索をばしてみました。



『平家物語』巻11 のうち剣巻に、

かの太刀にて九年があひだに攻めしたがへ、
貞任を首を切り、宗任をば生捕にし、のぼられけるが、
丈六尺四寸なり。殿上人うち群れて、

「いざや、奥の夷を見ん」

とて行かれけるに、
一人梅の花を手折りて、

「やや、宗任。これはなにとか見る」

と問はれければ、とりあへず、

「わが国の梅の花とは見たれども大宮人はいかがいふらん」

と申しければ、殿上人しらけてぞ帰られける。



とあり、


 『古今著聞集』巻第九 第十二 武勇 四 に、

伊予守源頼義朝臣貞任宗任等をせむる間、陸奥に十二年の春秋を送りけり。
鎮守府をたちて秋田の城にうつりけるに、雪ふりて軍のをのこどもの鎧皆白妙になりにけり。
衣川の館岸高く川ありければ、楯をいただきて冑にかさね筏をくみて攻め戦ふに
貞任等堪へずして遂に城の後よりのがれ落ちける。
 一男八幡太郎義家衣川に追ひたて攻めふせて、

 「きたなくも後をば見するものかな、しばし引きかへせ、物いはん」

 といはれたりければ貞任見かへりたりけるに

 「衣のたてはほころびにけり」

といへりけり。貞任くつばみをやすらへ錏をふりむけて

「年をへし糸のみだれのくるしさに」

とつけたりけり。
その時義家はげたる箭(矢)をさしはづして帰りにけり。



とあって、こちらを「衣川連歌」というそうです。
実話だったら貞任も宗任も義家もマジかっこいいぜ。
それに比べて永田町じゃないや、都の官僚は栄耀栄華を欲しいままに御殿にヒッキーだから
東北の人の教養が高いことや東北にバンバン梅が咲くことを不知。世間知らずお尻丸出し。



 参考 安倍貞任または安倍宗任に関する伝承 星野岳義著 PDF

            鳥海柵の主・安倍宗任 PDF(北梅之図が見られる)

    東北の梅の名所


 





 

web拍手 by FC2

奥州安達原 / comments(0) / trackbacks(0) / オムライス /
安東氏(安倍氏)の系譜
”蝦夷管領”安東氏

鎌倉時代中期から室町時代にかけて、日本海を舞台に活躍したのが安東氏である。窮北の良港十三湊を拠点として、若狭・越前と盛んに往復した”津軽船”、室町時代に羽賀寺(小浜市)を再建した安倍康季(やすすえ)などが、そのもっとも光彩を放った時期である。

また、蝦夷管領職をめぐる”津軽大乱”が、鎌倉幕府滅亡の一因となったとみられることに安東氏の強大さをみることができるかも知れない。やがて南部氏に津軽を追われた安東氏だが、旧領奪還の悲願を達成することができず、その一族が秋田氏として近世に続くのである。その間に、興国二年(1341:興国元年とも)の大津波で母港を失いながらも、なお活動を続けた安東氏にその不屈の魂をみることができる。

安東氏は、前九年の役で源頼義に滅ぼされた安倍貞任の子高星(たかあき)をもって初代とする。貞任の子で十三歳の千代童子丸は厨川で父とともに戦死したが、三歳の高星丸は乳母に抱かれて藤崎(青森県南津軽郡)に逃れ、長じて安倍十郎貞義あるいは安倍頼信と称したという。次の堯恒(たかつね)のとき(寛治年間=1087〜94:藤崎城址の碑では寛治六年)に藤崎城を築き、以降、代々安東太郎または藤崎太郎を称したという。

そもそも安東氏は、その一族の活動が長期間にわたり、活動範囲も広かっただけに、その系図はいく通りもあって相互の関連や異同を明確にすることが難しい。「藤崎系図」によれば、神武天皇東征のときに滅ぼされた長脛彦(ながすねひこ)の兄安日(あび)が津軽安東側に追放されたのをはじまりとする。

次いで崇神天皇の時代に安倍河別命(かわわけのみこと)が蝦夷を征したときに、安日の子孫安東(やすはる)が先鋒をつとめて安倍性を賜って俘囚長となった。降って応神天皇のときに、致東(むねはる)が蝦夷の反乱を鎮めて”日下(ひのもと)将軍”の称号を与えられ、また、高丸が宝亀年間(770〜81)に”羽州鎭狄将軍”に任ぜられた。その子孫国東(くにはる)が、頻良(ただよし)ー頼良(頼時)ー貞任と続く安倍氏の祖であるとする。

「安藤系図」では、阿倍比羅夫(孝元天皇の子孫とする)の系統とし、出羽鎮狄将軍家麻呂(比羅夫の曾孫)の子孫が、忠良ー頼良(頼時)ー貞任と続く安倍氏であり、貞任の弟行任の子則任(実は貞任の子、藤原氏の養子)を安東氏とする。貞任の遺子から出ていることは一致するが、「藤崎系図」のいう高星とは合致しない。則任を継いだ和任(実は貞任の末子)の次の季任(すえとう)が、安倍と養父藤原の性を合わせて、安藤太郎と称したという。

これらは、安東氏が早く津軽の地に勢力を張っていたことを主張しようとしたものであろうし、貞任の子孫と称し、藤原氏と縁付けるのも、奥州の名門安倍氏・藤原氏との結びつきを強調しようとしたものであろう。

「安藤系図」では、季任の次の季俊が源頼朝の”奥州征伐”に従い、次の季信の代に”津軽守護人”の地位を得たという。また、その孫の季長が、嘉暦(かりゃく)二年(1327)に鎌倉幕府軍に滅ぼされたとあり、後述する”津軽大乱”と一致する。

しかし、「秋田系図」では”蝦夷管領”となったのは堯秀であり、次の愛季(よしすえ)が十三湊に移ったという(「安藤系図」は「湊系図」と同じであり「藤崎系図」は常陸の白鳥氏の系図で、江戸時代の『落翰譜(藩翰譜:はんかんふ?)』もこれを採用している。また、近世大名秋田氏の「秋田系図」は堯恒までは「藤崎系図」と同一である)。

安東氏は堯秀(堯季)または季信のときに鎌倉幕府から”蝦夷管領”に任命されている。鎌倉時代末期の『諏訪大明神絵詞』に「武家の濫吹(らんすい)を鎮護せんため安藤太と云ふ者を蝦夷管領とす」とある。『異本伯耆巻』に「此安東と云は、(北条)義時が代に夷島の抑として安藤が二男を津軽に置ける、彼等が末裔なり」とみえ、『保暦間記(ほうりゃくかんき)』には「元亨二年(1322)ノ春、奥州ニ安藤五郎三郎同又太郎ト云者アリ、彼等ガ先祖安藤五郎ト云者、東夷ノ堅メニ義時ガ代官トシテ津軽ニ置タリケルガ末也」とある。高秀が初代かどうかははっきりしないが、北条義時執権のときであった。

蝦夷管領は”蝦夷代官”とも記されており、前述の「安藤系図」では”津軽守護人”とある。鎌倉時代末期の『沙汰末練書』によれば、「東夷の成敗」が重要な政務の一つであり、「東夷は夷子(えぞ:夷)の事なり」とある。

したがって、蝦夷管領は『保暦間記』にいう「東夷の堅め」に置かれた治安警察的任務を担ったものであり、蝦夷を管理して貢租を調達し、兼ねて夷民の反乱に備えるものであった(小中村清矩『官職制度沿革史』)。ここに後述する安藤水軍の蝦夷地海産物の輸送が起因すると考えられる。
(後略)


 歴史読本 謎の日本海王国 荒井清明著 「津軽王国」 より


☆ここには書いてないけど
アホノミクスが宗任の末裔と自称しているのが気に食わねえ ρ(`O´*)チョームカツクー!ナグリターイ!
だったら東北を大事にしろよ東北通り越してアメリカばっか見てるくせに。
アメリカだけ超優遇して外交してる気になってるっておのれ思考停止かヴァカ
 




 

web拍手 by FC2

奥州安達原 / comments(0) / trackbacks(0) / オムライス /