妄想オムライス
床下は骨伝導 ワ((゚゚дд゚゚ ))ワワ !!!!!



海上交通の要衝 宗像
海民と日本社会 網野善彦著

海上交通の要衝、宗像 p300〜抜き書き

さらにもう一つ注意したいことは、神人といわれる神の直属民の集団が小勝浦、大島、吉田、峯、麻町、木下、内殿、許斐、村山田、浪折等々に分布していたことです。そういう神人たちは神事に奉仕しただけではなく、海上交通に関わるさまざまな職能を独自に展開していたに相違ありません。蚫を奉納する湊浦、魚を貢納する小開浦などについても同様で、こういうところに根拠を持っている海人のうちで有力な人々が、神人の身分を与えられており、宗像社がそういう海人の活動を組織していたことも明らかです。

このように海人を神人として組織し、浦・島を支配し、かつ所領についても海上交通に深い配慮を払って確保している宗像社を押さえることは、当時のより高位の支配者にとって重量な意味を持っていたことは間違いありません。宗像社を支配することは、当時の中国大陸との交易の拠点を押さえることにもなったのだと思います。

しかし、多くの場合、支配者たちは宗像社だけではなく、博多と関わりがある大宰府を押さえ、さらに肥前の宇野御厨ー古代には広域的な海人の根拠地であり、中世に松浦党の根拠地になるとともに、有名な御厨牛の産地の牧でもある宇野御厨を支配する。また有明海に面し、最近の説では、博多とも関わりを持っている神崎荘などを総合的に押さえることが、天皇家、摂関家、あるいは藤原氏の高位の人々、さらに平氏等々の勢力にとって、重要な意味を持っていたと考えられます。

これは既に川添先生が触れておられることですが、鳥羽院政期ごろには古くからの天皇家の直轄領であった神崎荘は院の所領となっており、もともと太宰府の御厨だった宇野御厨も天皇家の直轄の性格を持つようになってきます。院政期に入ると、院はこれらを併せ押さえ、太宰府はもとより、宗像社も院が支配する形ができるわけです。

こうした院と結びついて、このあたりを実力で支配したのが、平氏で、平氏は神崎荘にも関わりを持ちつつ、太宰府、宗像社を押さえ、北九州の要地、中国大陸との貿易の要衝を全体として支配しています。さらい北九州の海上交通を支配することは、当然、瀬戸内海の交通とも連動しており、淀川、宇治川を遡って都にいたる河川交通にもつながってゆきます。こうした広域的な交通路を押さえることが、当時の支配層にとって、極めて重要な意味を持っていたと思います。

武家の場合でも同様で、三浦泰村が、承久の乱後、宗像社に入ってきますが、同時に三浦氏は神崎荘も支配している。三浦氏は、このころ相模の守護で、駿河守でもあり、紀伊、土佐、河内、讃岐の守護を兼ねています。とするとこれは太平洋岸から瀬戸内海を通って、宗像社、神崎荘を押さえることによって、北九州にいたる海上交通に強力な影響を及ぼし得る立場に立ったことになると思います。恐らくそれが北条氏との競合の一つの要因になっていると考えられるのですが、三浦氏が滅ぶと、これに代って領家に即しては西園寺家、地頭については北条氏得宗が進出してきます。

(中略・西園寺家の動向)

得宗もやはり九州はもちろん全国的に海上交通の重要な拠点はみな押さえています。南のほうでも坊津や永良部島、喜界島などの南島が北条氏の支配下にあったようで、北は津軽から渡島半島に及ぶ地域をふくめて列島のすべての海上交通路を北条氏は支配しようとしており、列島の西の出口ともいうべき宗像、博多もその支配下にありました。

こういう公家、武家による海上交通の江壱岐支配を、視野に入れて考えてみますと、中世の政治史についてもかなり違った見方ができるのではないかと思います。

もう一、二点付け加えたいことは、このころの貿易に携わった人々の問題です。新安沖沈没船に勧進聖が乗っていたことはよく知られていることですが、こういう律宗や禅宗の聖・上人といわれていた人々の活動を、もう少し経済的な面から追及してみる必要が今後あるのではないかと思います。日本の社会全体の中で考えてみると、この人々がやっていることは、商業資本家、貿易資本家といってもよいのではないかと私は考えています。

もちろんまだ神仏のためという名目をつけていますが、資金をさまざまな方法による勧進を通じて蓄積し、関所を建てて関料を取り、棟別銭の賦課を公権力によって認められて勧進をするなどの方法で、勧進上人は事業資金を調達します。それによってただちに土木事業を行う場合もありますが、当面、「唐船」を建造して、綱首や水手を雇用し、北条氏を初めとする武家や公家の積荷を積んで大陸に渡る場合が十四世紀になると多くなってきます。この「唐船」は筑紫で建造されたという実例があり、日本列島でも造られているのですが、その建造の技術は中国から入ってきたのだろうと思います。

このようにして膨大な品物を中国大陸に持っていき、mこれを銅銭や陶磁器にかえて持ち帰り、資金をさらに巨大なものにしたうえで、寺社の造営をしたり、橋を架けたり、港湾を修築するなどの土木建築事業を請け負い、鋳物師、鍛冶、番匠、石工のような多様な工人を組織し、陰陽師、河原者、非人などまでを動員、組織して事業を完成させているのですが、こういう事業をやっている勧進上人は、土木建築請負人でもあり、貿易商人でもあると考えて、何ら不自然ではないと思います。(中略)

十四、五世紀にかけての貿易、商業は、こういう僧侶、あるいは僧形の人々によて担われていたというべきで、少し大胆にいいますと、まずその点に日本の資本主義が発達してくる起点とその一つの特徴を考えることが、可能になってくるのではないかと思うのです。

 (後略)







 

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筑紫といふ名義
筑紫国続風土記拾遺 上巻 p8

筑紫といふ名義は、古事記傳(伊勢國人本居宣長著述)に、筑後風土記に三説ある中の一に、昔此前と後の境なる山に荒ふる神有て行来(ユキカフ)人多(サハ)取殺されき。故(カレ)其神を人命盡神(シノ)となんいひける。後に祝祭りて筑紫神と申すとあり。此説さもあるへく覚ゆ。今又二説あるも、ともに盡の意あれどひがごとゝと聞ゆ。(又日本記私記に國形の木兎に似たる故とあるを、世々の物知人用たれどひがごとゝときこゆ。)此筑紫神ハ延喜式神名帳に筑前國三笠郡筑紫神社とある是なり。(又近古に貝原某が、日本釈名といふ物に、古へ異國より冦(アタ:あだす)来るを防ん為に筑前の此方の海濱に石原を多く筑せ給ひし故に筑紫の意ならんといへり。是も由有て思はるれと、異國の賊を防かれし事ハ上代にハなきことなり。)青柳種信も此説に従ひけるにや、外にいへる説なし。良賢つら/\考侍るに、風土記なる人命盡神といへるハ神ノ名にこそあれ、國名とハ聞えず。また私記の中に云々、山林欲(レ)盡因。筑紫國(一○)後分(レ)两為(二)前後(一○)と有て曰(二)筑紫國(一)と國名になれる如く記せるなれども、何の御世の事とも慥(サタカ)ならねは神名によりて國名に附曾せるものならんか。(本編に通音なるによりてチクシともいふべきよしいへるはひがこと也。古へよりツクシとこそいへれ、チクシといへることなし。今世に氏に筑紫といふあるを俗(ヨ)にチクシとよべれども、是もツクシといふべきなり。)
さて古へ四國に(上にいへり)分れたりしはいとも上代の事にて、既に日本紀景行天皇の御世には日向國と云フ國名も始て見えたれば、筑紫といふ名は彼御世より以前(サキ)の事と思い侍る。さてその名義は嚴(イツクシ)といふ事ならん。其のイといふ辞を省きてツクシとはいふなるへし。其(ソ)はいかにといふに、神代に伊弉諾尊の日向(筑前の事也)之橘ノ小門(ヲト)之檍原(此等ノ事ハ那珂郡仲村の条にくわし)にて禊祓し給ひし時尊き諸神(カミタチ)現ましゝ國なり。また宗像郡に坐三神の内一神(ハシラ)を市杵嶋姫命と申奉る御名も、イツクシ嶋姫と申す意ならん。また、安藝國佐伯郡伊都伎嶋神社とある御社を三代實録にハ即嚴嶋とあり。是らにて知へきなり。然れはイツクシの嶋、イツクシの國と名付たる物とこそ思ひ侍れ。其嚴ノ字字書に威也。また嚴肅また尊也とも、史記遊侠傳に、諸公以(レ)故嚴(二)重之(一)などもあり、是らにても是筑紫の國のいと尊きさまイツクシの義をさとるへし。(イと云ふ言を省く例地名等に殊に多し。)

一 前後二に分れて字音にてチクゼン、チクゴとよべるは北海道の越(コシ・古ハ古志とも書り)山陽道の吉備是らも三に分れて前中後となりたりしより二字に書て字音よみになれるなり。(二字に改られし事ハ郡郷の名と同時かさたかならず。)

一 抑上代の國境の御制(サタメ)は細(コマ)かなる事ハ知がたけれども、古書ともに事にふれて往々(ヲリヲリ)見えたる趣につきて考るに、後世の如く際やかなることこそ無かりつらめ。大かたにハ元よりも國々の堺なども有りはしけん。成務天皇の御世に慥(たしか)に定給ひしなり。(此より先にハ堺もなかりしを初て定給ふとにハあらす。)此後も姓氏録に、坂合部ハ大彦命之後也。(疲れた。以下略)

福岡商家町、神社、博多、博多神社寺院、那珂郡、御笠郡とつづく
御笠郡p546に太宰府寺社のことあり






 

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鐘崎の海女
宗像大社の「海の道むなかた館」に展示してあるパネルのひとつ、

鐘崎海女の出稼ぎ生活

鐘崎の海女は、良い漁場を求めて広範囲に出稼ぎに行きました。この出稼ぎを「アマアルキ」といいます。江戸時代に中国の輸出品として干しアワビの需要が高まると盛んに「アマアルキ」が行われ、そこに移住し海女の技術を広めました。鐘崎の海女が移住した村は日本海側の各地に見られることから、鐘崎は「日本海沿岸の海女の発祥地」といわれています。

と書かれている。
パネルには五島ルート、対馬ルート、日本海ルートの3つのアマアルキのルートが見え、
日本海ルート上の鐘崎海女の移住先(枝村というらしい)は、
山口県の大浦、見島、三隅、浜田、島根県の波子、波根、隠岐、

そして、

鐘崎海女はおよそ350年前に能登の輪島にやって来て枝村を創り住んだ。

舳倉島は「海女の島」といわれ、島の海女さんは現在も代々受け継がれているが、
その祖は鐘崎の海女だったのだ。キャー!


ところで、

宗像(胸形・宗形・胷形)氏は、『古事記』『日本書紀』にも何回となく登場する有力な地方豪族である。その祭祀する宗像三神は、海北道中の航海安全を守る神として国家的信仰をうけ、さらに宗像氏の主宰する沖ノ島の祭りは、国家的祭事として行われている。

宗像氏の権力の基盤は、宗像地方の海人(あま)集団を統率していることにあった。宗像海人の海上活動は、大島-沖ノ島-対馬-朝鮮におよび、朝廷の国際交流や海外出兵も宗像海人に依拠するところが大きかったのである。かくて宗像氏は中央から重要視される地方豪族として繁栄し、また宗像郡が紳郡に指定されたことから、宗像郡の大領(だいりょう・郡司の長官:かみ)の地位も兼ねるようになった。

ところが国家の外交政策の転換、遣唐使の航路の変更、国家的航海神としての住吉神社の台頭などによって、宗像氏と宗像大社、およびその支配下の宗像海人は、急速にその重要性を失ってしまう。そのうえ延暦十九年(800)には、神官と大領の兼任までも禁止され、宗像氏は宗像大社の神官職のみを保持する存在になった。(後略) 

  新全国歴史散歩シリーズ40 福岡県の歴史散歩 p71 コラム「宗像氏の盛衰」 より



宗像海人と鐘崎海女の関係は、無いの?宗像海人は鐘崎を玄関としていたというし。
関係があれば面白いけどなくても、やっと海民に辿り着いたよ。←自分の興味が

思い起こせば4年前。
文楽のルーツ傀儡子のそのまたルーツを辿っていったら、
いきなり海民にぶち当たって、あまりの突拍子のなさに驚いたのだったよなあ。
文楽と海民。どうやって結び付けろというのだ。
大陸の傀儡師が海を渡って日本に人形操りを持ち込んだという説らしいけど、
4年前は何ひとつ知らなかったもんで、俄かには信じ難かったのだ。
ほんじゃ大陸の傀儡師は宗像の海の道を通ったのか。
中国や朝鮮に箱廻しがあったか。箱廻しは西宮傀儡師の発明なのか。
そういや恵比寿さんはどこで捨てられて和田浦沖に流れ着いたのか。
あたしゃ八犬伝の予習をしなくていいのか。




☆追記:舳倉島の総本社とされる奥津比弯声辧淵キツヒメジンジャ)は福岡県に伝わる宗像三女神の一柱・田心姫(たごりひめ)が祀られ、永禄年間(1558〜70)に筑前国宗像郡鐘ケ崎から13人の海女達がこの地に漂着して海女漁を広めたという話と呼応しています。また、この神社に伝わる海獣葡萄鏡は能登半島の付根にある寺家遺跡出土の鏡と同笵とされ、舳倉島が古代の国家的祭祀場だった可能性も指摘されています。

日本の島へ行こう 石川県の島 舳倉島 より








 

 

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宗像大社
大島から神湊に戻り、



東郷行きバスに乗って辺津宮(宗像大社)に立ち寄るつもり。

↑クリックで時刻表


程なくして来たバスに乗り、

宗像大社前下車。 


あまり時間がないぞ。

取り急ぎ、


海の道むなかた館へ駆け込む。



古代宗像の地に人が現れるところから歴史が綴られ、

遺跡や出土品なども紹介。


鐘崎海女の出稼ぎ生活だって!筑紫のあまちゃんだ。



あまちゃんのお道具。

行ってみたくなっちゃうじゃないですか、鐘崎。


沖ノ島遺産年表持って帰りたい。

面白いのにじっくり見る猶予なんぞござりましぇん。
沖ノ島の3D映像を見るのが精一杯。


次、はやく、次!


境内広い〜無理〜。



クリックで由緒書拡大

宗像大社公式ホームページ


満を持して市杵島姫神にお会いするのだ。嬉しくて頬骨が上ってしまふ。

小走りで拝殿に突進し、お会いしに来ました!真ん中の女神さま!

辺津宮の市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)は静かに厳かに其処へおわし、
このわたくしめは粗忽を引っ込め、呼吸を整え気を引き締めるのでありました。


wikpediaに、

『日本書紀』本文では3番目に、第二の一書では最初に生まれたとしており、第三の一書では最初に生まれた瀛津嶋姫(おきつしまびめ)の別名が市杵嶋姫であるとしている。現在宗像大社では、辺津宮の祭神としている。また市杵島神社では、「市杵島姫命は天照大神の子で、皇孫邇邇芸命が降臨に際し、養育係として付き添い、邇邇芸命を立派に生育させたことから、子守の神さま、子供の守護神として、崇敬されているという。」説明板がある。
神名の「イチキシマ」は「斎き島」のことで、「イチキシマヒメ」は神に斎く島の女性(女神)という意味になる。辺津宮は陸上にある宮であり、その意味では、中津宮・沖津宮の祭神とする『記紀』の記述の方が神名の由来に近いことになる。厳島神社(広島県廿日市市)の祭神ともなっており、「イツクシマ」という社名も「イチキシマ」が転じたものとされている。


とあって、三姉妹の生れた順に異説があるようだけど、宗像大社は、
「長女・田心姫神、次女・市杵島姫神、三女・湍津姫神」としている。
厳島神社の社名が市杵島姫神から来ているとは知らなかった。


神名の「イチキシマ:斎き島」の「斎く」は「いつく」で、三省堂大辞林 に、

/歓箸留れを去り神に仕える。《斎》「此の三柱の神は,胸形君等の以ち−・く三前の大神なり/古事記 上」
⊃世忙鼎┐襪茲Δ糞せちで大事に世話をする。《傅》 「海神(わたつみ)の神の命のみくしげに貯ひ置きて−・くとふ玉にまさりて/万葉集 4220」


とあり、学研全訳古語辞典 には、

けがれを除き、身を清めて神に仕える。大切に祭る。大切に祭っている。

とある。巫女さんは神に斎いておられるわけね。

さて、

三姉妹の神様全員に御目文字叶い候!嬉しいったら感謝感激雨霰!!
早々に市杵島姫神にお別れを告げ、拝殿の写真を撮るのも忘れ、次に急げ〜 


今朝、一時間寝坊したばっかりにこの慌ただしさ。
夕べは博多座文楽の凄まじさにコーフンして碌に寝てないのであるよ。


天上の翁
セイント千歳
技巧全開どこが還暦フルパワー寿式三番叟!


珠玉の合邦庵室!

緊迫の駆け引きスリルとサスペンス
緩急自在神技エクスタシー
息子が反則的イノセント椎の木!

あたしのためのあたしだけのための小金吾討死!

のどから手ェ突っ込んで魂ガコガコいわしたろかすしや!



こんなの見た日にゃ血圧上がっちゃって眠れるわけがないのであるよ。


神宝館へダッシュ。

閉館30分前に滑り込み。


眼目は、

金銅製龍頭!

口の部分に房を付け、祭祀に使用する竿の先に装着する装飾品と考えられている。

ナスカの地上絵同様、これも宇宙人の作品であると
小学生の時にマンガ雑誌で読んだのであった。
いや〜〜〜ホンモノをこの目で見ちゃったよ!
小学生のあたしに言ってやりたい。
数十年後に見られるから楽しみに持ってろ、と。

勾玉に銅鏡に錆びた剣に金の指環、
風変わりな意匠の狛犬、
宗像大社に伝わる古文書の数々。


市杵島姫神さまさようなら!道中導いて戴きありがとうございました。



宗像観光したいよ。



宗像大社前〜東郷駅行きバス時刻表



博多へ帰って来たら、

一気に現実に引き戻された。


今年も美しい。



あっ、弥助!このイロオトコめ!

博多で高菜に巻かれている場合じゃないでしょ!


ありがとう福岡

来年も来れるといいな









 

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夢の小夜島
船の出港まで時間があるから夢の小夜島に寄っていこう。


海水浴場を兼ねた緑地広場に来た。



遠浅の岩場の左手に、



夢の小夜島はあった。

ちっちゃくてかわいい〜



「夢の小夜島は、室町時代の連歌師飯尾宗祇(いいおそうぎ)の「筑紫同中記」
に歌われた島。昔の詩情そのままで、海中に立つ朱色の鳥居と島を覆う松の緑が
美しいコントラストを見せている。」 と書いてあります。宗祇は、

〜浜千鳥 声うちそへて おほしまの 波の間もなく 誰を恋らん〜

と歌ったそうでありますが、
「夢の小夜島」とはひとことも言っていないので、
この歌のどこが夢の小夜島なのか、
ノータリンで情緒欠乏症のあたしには理解不能なのであります。
しかしロマンチックなお歌なのであります。



浜千鳥、は見当たらないけど、



カラス 

一羽しかいないし鳴いてないけど、


声うちそへて おほしまの

波の間もなく 誰を恋らん 


って、荒ぶる弟宗任かなやっぱし。でも貞任もだいぶかっこよかったよな。
あ〜ん迷うぅ ←(だからオマエが恋しがれって誰も言ってない)
カラスはお腹が空いて食べ物を捜すのに夢中だったみたいよ。


そうこうしている間に、くるくると天候が変わる。

この変わり様!


潮が引いた。最初の岩場に渡ってみようか。



海の上の祠には文殊菩薩がおわしました。

突風に吹っ飛ばされそうだった。
文殊菩薩、文殊、もんじゅといえば紋壽さんのお里がかわいかったよ!
古風全開でゾクゾクした。


響灘方面。



玄界灘方面。



しょっぱい! 冷た〜!

手がかじかんでシャッターを押すのに一苦労。


イソギンチャク



ウニ

それに、小さなヤドカリが沢山。
あたしの足音に驚いて一斉にころがると、笑ってしまうほど、たっくさん。


戻ろう。

今度は足元にバラバラと霰がはぜている。


霰が雨になり、そしてやみました。



歳末の提灯が似合う駐在さん。



そうだよね、ワンピース大好きに決まってるよね、大島だもん!



左へ曲がると港、真っ直ぐ行くと湍津姫神の中津宮。



港の風物詩



船は予定通りに出港する。よかった!  大島渡船運航時刻表

今年は時化で船が出せない日が多かったと漁師さんが話していた。


地元の人は乗ったとたん弁当食べ始めるし、子供はじっと座ってテレビ見るし。

すっごい揺れて斜めになっても皆平常なの。シンジラレナイ。


船が出るぞ〜〜 いよいよ市杵島姫神に会いに宗像大社へ行きますよ〜!



わっきゃーーーー沖ノ島だー!    右端



田心姫神さま〜さようならぁ〜〜



イロイロトアリガトウゴザイマシタ〜 


☆追記:冷静に考えたらフェリーの航路から沖ノ島が見えるワケがないだろ。
    沖ノ島に見えた島影は蓋井島だったかも。そうかも違うかも。

 国土交通省九州運輸局 蓋井島
 http://wwwtb.mlit.go.jp/kyushu/gyoumu/kaiji/file01_11_02.htm





夢の小夜島


大島渡船運航時刻表
☆大島滞在時間約3時間(神湊発11:15〜大島発14:40)


宗像大社 へつづく






 

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