妄想オムライス
床下は骨伝導 ワ((゚゚дд゚゚ ))ワワ !!!!!



お袖が働く浅草寺の楊枝店
江戸名所図会 巻之六 楊枝店


境内楊枝を鬻(ひさ)ぐ店甚だ多し
柳屋と称するものをもて本源とす
されど今はその家号(いえな)を唱ふるもの多く
竟(つい)にこの地の名産とはなれり
僧祇律に 楊枝に五ツの利ある事を載せて云く

一に口に苦からず
二に口臭からず
三に風を除き
四に熱を去り
五に痰をのぞく



浅草寺


「東海道四谷怪談」のお岩さんの妹お袖は、
昼は浅草寺境内の楊枝店で働いている。
お袖は楊枝店に出る時は「おもん」と名乗っているが、
浅草寺境内の楊枝店におもんさんという女性が
実在したそうである。
楊枝店は浅草寺参道に住んでいた黙阿弥にとっても
日常見慣れた光景であったことだろう。
江戸時代には今のお水舎のある場所に絵馬堂があって、
その前に楊枝店が軒を並べていたという。


広重 東都名所金龍山浅草寺 より

浅草寺境内案内図 http://www.senso-ji.jp/guide/

過去記事:浅草の黙阿弥住居跡  







 

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直助権兵衛

「東海道四谷怪談」に登場する直助権兵衛は実在した。


 深川にて主殺しの事
深川万年町冬木屋敷に浪人医師有り、一説には、浅野内匠頭殿浪人のよし、所の者申ける、家来に、直助とて上州者、一季奉公に住て、貯金もありて、宜敷(よろしく)腰の物を売べきよし、道具屋へ見せけるを見込て、或夜忍びて、金子を取出し、則刀も取て腰にさし、出る所を医師声をかけしを、抜討に唯一刀に切殺す、其足にて駆出し、行衛しれず、所の者、則御番所へ訴へ出、書付を出して、三年が内知れず、再触有て、人相書を以て御尋なり、其後、糀町三丁目搗米屋に奉公をして米をふみ居しが、此廻状を以て、笑ひながら隣へ送る、髪も薄かりし、顔のほくろも抜て、形チを替けり、され共、請人の女房見出して、御番所へ注進し、召捕り被りしと也、

 権兵衛、直助と同前御仕置に逢ふ事
日本橋二丁目に経師屋あり、元紀州和歌山の町にて御用達ける者なり、紀州様江戸御城へ入り為し被り候に付、則、日本橋へ店を借りて、御内証御用達金百両請取、箪笥へ入置けるを、召仕権兵衛見て、其夜盗て出る処を、経師屋起上り、盗人よと呼はれば、唯一ト刀に切殺し、即時に欠落す、此時、権兵衛は和歌山にて召抱へし者也、経師屋も独り住にして女房はなし、権兵衛に賄申付ぬ、扨、右権兵衛国へ登りしが、最早国にても沙汰有を聞て、高野山へ登りしが、高野山にも居られず、麓へ下りしを見付、捕へて江戸へ引、右の直助と権兵衛、同時の主殺にて、同日にさらし、品川におゐてはりつけに掛る、前代未聞の事共也、此見物、品川込合て、怪我人多しとなり、

 燕石十種第四巻 江戸真砂六十帖広本 より 



御觸書(おふれがき)寛保集成四十八の御尋者かたり事等之部になる 二八六八 享保六丑年六月に、


當丑正月十六日深川万年町醫中嶋隆碩(りゅうせき)夫婦を切殺し、致欠落候下人直助人相書

一 直助生國上州、
一 面おも長あさぐろ、
一 さかやき厚く、頭丸く、
一 中鬢(びん)、
一 鼻筋通り、
一 眉毛あつし、
一 二重目ふち、目の内冷敷、目尻すぐ、
一 鼻下少長く、ほう骨少し高く、
一 口常之通り、物云はけ敷中聲、
一 中耳
一 目の下に少しほくろ有之、左右ハしかと相知不申候、
一 首筋少しのび、
一 ひたい少しひろく、物見候節ハ、ひたいにて見申候、
一 中せい、少し前かゝみ、
一 腰丸腰、帯きわより下の方長し、
一 手足ふとし、
一 手足身の内しつの跡有之、
一 肉堅肉にて、年廿二にて候得とも、廿四五歳に相見え申候、

 欠落直助致取逃候主人隆碩刀注文
一刀一腰、身三原、
 但、壹尺六寸餘、鞘上にて壹尺七寸余、

一 切羽はゝき金きせこけやすり、
一 鍔丸茗荷千鳥すかし、大サ貮寸六七分、
一 目貫重つゝミ赤銅にて、革之所ハ金、
一 柄頭角黒ぬり、正赤銅のしとゝめにて引通し、
一 ふち金と赤銅の縄目、
一 かうかいかう箸、

 但、かうかい柄ハ金唐草梨子地、かうはしハ銀のむく、

一 鞘黒塗、下緒紫、細さなた打しとゝめ焼付、
右之通之者於有之は、其所に留置、御科ハ御代官、私領は地頭え申出之、それより江戸町奉行所え可申逹候、見聞及候ハゝ、其段可申出候、尤家來井又もの等迄入念遂吟味候、若隠置、後日に脇より相知候ハゝ、可為曲事候以上、
  六月

 月堂見聞集別巻




権兵衛の人相書きを描いてみた。

面長浅黒、頭は丸くて鼻筋通って眉毛濃くて、二重瞼で眼光鋭く、
鼻の下長くて頬骨高くて、首筋伸びて耳は中くらい、と。


耳下のホクロがわかりにくいや。ていうか全身描けよ。


じゃあ、

笑ってみた。 


えっへっへ〜



すまん。オワリ。


岡本鬼堂の戯曲にこの事件に取材した「直助権兵衛」があり、オチが落語みたいでおもしろい。








 


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東海道四谷怪談 初演番付

文政八年(1825)七月江戸中村座にて「東海道四谷怪談(「あづまかいどうよつやくわいだん」とルビ)」初演。その5年後の天保元年(1830)六月、外題を「時鳥四家噺(ほととぎすよつやばなし)」として江戸土佐座にて人形浄瑠璃が初演。外題を「東海道四谷怪談」としての上演は、翌年の天保二年(1831)七月、場所を大坂に移し御霊社内で上演されたのが初め。


 鶴屋南北「東海道四谷怪談」番付 初演:文政八年(1825)七月江戸中村座 

初日二番目 序幕 浅草境内の場 同裏田甫の場
初日二番目 中幕 雑司ヶ谷四谷町の場
初日二番目 三幕目 十万坪穏亡堀の場
後日二番目 序幕 深川三角屋敷の場 小塩田隠れ家の場 
後日二番目 中幕 夢の場 蛇山庵室の場
 (「仮名手本忠臣蔵」と交互に、二日に渡って上演された)

民谷伊右衛門 市川団十郎
薬売り 直助 松本幸四郎
奥田庄三郎 尾上松助
伊藤喜兵衛 市川宗三郎
四谷左門 尾上蟹十郎
按摩宅悦 大谷門蔵
小間物屋与七実ハ佐藤与茂七 尾上菊五郎
伊右衛門妻お岩 尾上菊五郎
お袖 岩井粂三郎
大三ツの升太 市川高麗蔵
乳母お槇 市川おの江
伊藤孫娘お梅 岩井春次
秋山長兵衛 坂東善次
薬売り籐八 松本染五郎
医者尾扇 尾上扇蔵
通人文嘉 市川市五郎
柏屋彦兵衛 三桝勝蔵
乞食坊主願哲 市川団次
乞食坊主運哲 中村つる蔵
中間伴助 中村千代飛助(ちょびすけ)
茶見世の女房お政 坂田半十郎
宅悦女房お色 岩井長四郎
猿寺の桃助 尾上梅五郎
砂利場の石 尾上けい蔵
非人づぶ六 市川銀兵衛
非人目太八 中村千代蔵
非人泥太 市川子の助(ねのすけ)
若イ衆 おおぜい
仏孫兵衛 沢村遮莫
関口官蔵 松本染五郎
中間伴助 中村千代飛助
伊藤後家お弓 吾妻藤蔵
利倉屋(とくらや)茂助 沢村川蔵
孫兵衛女房お熊 市川宗三郎
小塩田権兵衛 三桝源之助
古着屋庄七 鎌倉平九郎
小平女房お花 尾上菊次郎
赤垣伝蔵 中村伝九郎(若太夫・座元の後継者)
小平倅次郎吉 子役
米屋長蔵 市川好蔵
進藤源四郎 大谷門蔵
植木屋甚太 尾上梅五郎
小林平内 鎌倉平九郎
庵主浄念 尾上扇蔵
歯磨き屋半六 市川市五郎
肴屋三吉 沢村東蔵
船頭 市川銀兵衛

 (参考:新潮日本古典集成 東海道四谷怪談 郡司正勝) 



 人形浄瑠璃初演番付

天保元年(1830) 庚寅六月二十六日より 土佐座 江戸

 御操 名代 土佐虎之助
     座元 竹本金蔵
     太夫 竹本津賀太夫

 一谷嫩軍記 三段目まで (同時上演)

 太夫役割
堀川御所 竹本津満太夫
兎原のさと 口 竹本津根太夫 中 竹本久賀太夫 切 竹本筑子太夫
陣もん 竹本賀代太夫
組討 豊竹君太夫
熊谷陣家 口 竹本津太夫 切 竹本津賀太夫


 時鳥四家噺(ほととぎすよつやばなし) 前座後座五段続

神楽坂のだん 口 竹本津満太夫 次 竹本久賀太夫
八幡鳥居のだん 口 竹本津太夫 中 竹本曽賀太夫 奥 竹本賀代太夫
伊右衛門宅のだん 口 竹本津根太夫 中 竹本筑子太夫 切 豊竹君太夫
夜鷹場 口 竹本久賀太夫 奥 竹本曽賀太夫
水車お岩殺のだん 竹本筑子太夫
左門宅のだん 竹本津太夫 竹本津賀太夫
伊東茶屋のだん 惣掛合

 三味線
鶴沢勘五郎 鶴沢勘七 鶴沢勘六 鶴沢幸司 野沢万吉 鶴沢林造 大西源治郎 鶴沢勘平

 人形役割
岡部六弥太 吉田文三
梶原平三 吉田冠二
平山武者所 吉田大五郎
人足廻し茂治兵衛 桐竹貫十郎
軍治 桐竹貫十郎
大太刀玄番 吉田新五郎
軍兵 吉田与三治郎
菊のまへ 藤井弥十郎
ふじのかた 藤井弥十郎
軍兵 よし田新治郎
忠のり 吉田国五郎
玉織姫 吉田源十郎
さかみ 吉田源十郎
軍兵 よし田平吉
大納言時忠公 桐竹文治
軍兵 吉田冠平
うら葉 吉田とら吉
乳母はやし 吉田扇治
あつもり 西川文造
小次郎 西川文造
太五平 西川文造
源義つね 吉田東九郎
みだ六実は弥平兵衛宗清 吉川半三郎

熊谷次郎 吉田兵吉

民谷伊右衛門 吉田文三
四つ家左門 吉田冠二
よたかおらく 吉田大五郎
ぎう喜七 桐竹貫十郎
てつち三太 吉田新五郎
非人の六 吉田新治郎
芸者やおきせ 藤井弥十郎
非人の八 よし田与三治郎
道具や小兵衛 吉田国五郎
おむめ父半六 吉田源十郎
かごの金助 よし田平治
よたかおなべ 吉田扇治
判人長六 吉田冠平
箱持の喜助 西川文造
うつゝの万助 吉田東九郎
奴鉄平 吉田東九郎
萩山長兵衛 吉川半三郎
料理人三治 吉田兵吉
芸者屋おむめ 吉田兵吉
左門娘おいわ 吉田兵吉

頭取 吉田冠二
人形細工人 和泉屋五郎兵衛

千秋万々歳大々大入叶
 版元 さかい町沢村利兵衛正 (写真一三九三)

〇「時鳥四家噺」は文政八年初演の歌舞伎狂言「東海道四谷怪談」を浄瑠璃化したもの。土佐座は天保五年以後休座するので、右番付に記された「寅」はその間の天保元年となる。

  (義太夫年表近世篇 3上巻 p28 )




  大坂での初演番付 (外題「東海道四谷怪談」としての初演)

天保二年(1831)卯ノ七月二十五日より 御霊社内ニおいて 大坂

 太夫本 吉田小竹
 太夫 豊竹巴太夫

てんもくざんのようくはいきつねのたまものうけ込だ使者のわうらい時に大津の船揃へに大将のげんざんは鉾盾の発端

 甲斐信玄 越後謙信 信州川中島合戦 大序より三段目迄 (同時上演)

大序 口 竹本津太夫 おく 竹本弥宗太夫
初段 口 竹本工賀太夫 切 豊竹頼太夫
弐段目 口 竹本筑庫太夫 中 竹本音羽太夫 切 竹本土佐太夫(音太夫事)
参段目 口 豊竹半太夫 中 竹本氏太夫 切 豊竹巴太夫


 お岩稲荷の末裔 羽宮姓氏の実録 東海道四谷怪談 聞書五冊

大和田峠のだん 口 竹本工賀太夫 おく 豊竹巴勢太夫 
伊右衛門住家ノ段 口 豊竹半太夫 切 竹本氏太夫
師直下館の段、玄辰やしきの段 口 竹本音羽太夫 切 竹本土佐太夫
向島の段 口 竹本筑庫太夫 切 豊竹巴太夫 跡 竹本音羽太夫
深川のだん 口 かけ合 豊竹半太夫(口) 竹本筑庫太夫 竹本音羽太夫 
        切 豊竹巴勢太夫 跡 竹本工賀太夫 おく 竹本弥宗太夫 豊竹常太夫

 三味線 鶴沢文蔵 鶴沢文三

 三味線 
鶴沢又蔵(千五郎事) 鶴沢初助 鶴沢勢吉 鶴沢幸次 鶴沢宗次郎 鶴沢市蔵 鶴沢善太郎
鶴沢元三郎 鶴沢亀太郎 鶴沢勘四郎 鶴沢友吉 鶴沢文平(勇次郎事) 豊澤馬之助 鶴沢大吉


山本勘介 吉田文三
長尾輝虎 吉田新治
直江山城之介 吉田多津助
原五郎 吉田勢造
武田かつ頼 吉田大五郎
村上よし清 豊松国市
小姓左門 吉田小竹
はた持兵内 吉田熊治
落合藤太 吉田亀蔵
衛門ひめ 豊松東三
からきぬ 豊松東三
竹田信玄 吉田源吾
直江大和ノ助 吉田冠四
高阪だん正 吉田源十郎
勘介母 吉田才治

下人小介 吉田文三
松尾玄辰 吉田文三
くまざゝ 吉田新治
直助 吉田新治
近藤源四郎 吉田多津助
紙くずや八兵へ 吉田多津助
伝介 吉田勢造
さき坂伴ぞう 吉田大五郎
尼幸はん 吉田大五郎
高なしの文八 豊松国市
治三郎 豊松国市
子伊之介 吉田竹松
仲居おさく 吉田才治郎
水茶や娘お春 豊松荒吉
山がつ杢兵へ 吉田春蔵
同 楠六 吉田亀蔵
庄や太郎兵へ 吉田亀蔵
又八 一の谷八十郎
盗人かまどのごん 豊松東三
ゐしや伯道 吉田源吾
木や長七 吉田源吾
奥田庄右衛門 吉田冠四
木工佐兵へ 吉田冠四
おきせ 吉田源十郎
羽宮伊右衛門 吉田才治

勘介女房おかつ 吉田兵吉
大わし文吾 吉田兵吉
たいこ持飛介 吉田兵吉
おいわ 吉田兵吉
こしもとみどり 吉田兵吉
芸者小梅 吉田兵吉
人形細工司 吉田源十郎
千秋万歳楽大入叶吉祥日

     いづ卯板  (写真一四二九)

〇五月朔日よりの同処における興行と一連のもの。紋下竹本筆太夫から豊竹巴太夫に交替。
〇番付の一本に「玄辰やしきの段」の「竹本土佐太夫」の上に「音太夫事」、「三味線 鶴沢文蔵 鶴沢文三」の欄に「かけ合出びきニて相勤候」との書込みがある。
〇この興行には前掲の番付A以外、別番付Bを知る。Bは、三味線「鶴沢文蔵」以下の版が改められ、次の如くになっている。

 三味線 鶴沢文蔵 鶴沢文三

 三味線 鶴沢又造(千五郎事) 鶴沢初助 鶴沢清吉 鶴沢文吾 鶴沢幸治 鶴沢宗次郎
       鶴沢市蔵 鶴沢亀三郎 鶴沢勘四郎 鶴沢友吉 鶴沢藤造 鶴沢文平(勇次郎事)
       鶴沢馬之介(豊沢改) 鶴沢大吉

   (義太夫年表近世篇3上巻 p62)





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四谷怪談 文楽のお岩さん 
  ?東海道四谷怪談は文楽ではやらないのだろうか?


じゃーん。いっちばん最初に買った文楽の本。

伝統と芸能タ遊措乃錙(垰-河竹登志夫 昭和44年発行 學藝書林 

豊富な人形の写真とともに各地に残る人形芝居のデータが満載、しかも
今は亡き河竹登志夫さんはじめ数々の名論が読めるのだ。

裏。

おもぴろそうでしょー。おもぴろいんだよーこれが。
その節の裏切りジジイとがっかりババアの名前を見るのが今となっては気に食わねえがな。
※追記:「がっかりババア」撤回します。でも遅すぎ。

この本は、2011年の團菊祭の時だったか、松竹大歌舞伎の時だったか、團菊祭なら5月だし、松竹大歌舞伎なら7月の事なんだけど、松竹座の2階ロビーの片隅で開かれていたささやかな古本市でゲットしたのであるよ。 なんで歌舞伎三昧の真最中に人形芝居の本なんかを買ったかというと、同じ年の4月に文楽劇場にて女殺油地獄を歌舞伎と見比べようとして、お芝居を人形劇で見るだけのつもりが、勘十郎さんの、人形のくせに生き生きとグレた不良青年与兵衛がわたしのハートをぐわしと鷲掴み、ひとたび文楽に肝を掴まれたら蛇に睨まれた蛙も同然ひと息にのみ込まれるに任せるほか術はなく、文楽のことはなんでも知りたいおせーろモードに突入したところだったの。

ほんでね、

なんと、

この本に、

お岩さんの首の写真が載っていたのであるよ〜〜エヘヘヘヘ〜〜
美人〜
つまり、

東海道四谷怪談は文楽で上演されたことがある!

なんだよ〜、首あるじゃないよ〜、なんで文楽でやらない四谷怪談〜。
もしかしてバカアメリカが空襲で焼いちゃって写真しか残っていないのかな。
そもそもこれはいつ頃の人形だろう?

そうだ、
国立劇場で人形の首を調べられるかもしれない。

んで、
伊賀越道中双六のコーフン冷めやらぬまま伝統芸能情報館の階段をフラフラと2階の図書館へ。
人形の写真集ないかな〜写真集写真集平作平作お谷にお袖にお米に志津馬に十兵衛に幸兵衛
政右衛門と結婚して竹藪でデートしたい そしたらあたしゃおのちのち あった写真集。

アトリエ社出版 斉藤清二郎著「文楽首の研究」 というデカい写真集に、
お岩さんがいたー!


じゃじゃーん。 縦四寸二分 豊澤猿二郎蔵 

口の裂けた寸法 縦四寸五分

こっ、こえ〜〜。

怖くて、すっごく悲しい。

解説によると、このお岩さんは彦六系の首で、旧くは座主の寺井安四郎が持っており、のちに豊澤廣作(後の名庭弦阿彌)が受け継いで所蔵していたもので、彦六座で明治十八年七月四谷怪談上演の時に、当時の人形座頭であった名人の吉田辰五郎が出遣い早替りで遣っているという。のち明治二十年十月にも通し狂言で上演されており、そのときには桐竹亀松が遣ったのだそうだ。一輔さんのお祖父さまの亀松さんの先代で、初代紋十郎が亀松を名乗ったその次の亀松さんかな。彦六座で四谷怪談の上演はこの二回のみとのこと。そして、この首は凄味があり名作と言えるだろう、と締めくくっている。ド直球にリアルにド迫力だもんね。
 
次のページに、持っている本に載ってたお岩さんの正面写真もあった!

縦三寸九分 桐竹門造蔵

やっぱ美人だ。お岩さん貞女説に相応しいタイプ。

ガブッてなっても美しい。

口の裂けた寸法 縦四寸二分

こちらのお岩さんは四代目桐竹門造(明治四十二年没)の作と伝えられている。四代目門造さんが抱くお岩さんのイメージなわけね。メンクイだね門造さん。しかし人形遣いが人形作っちゃうってゆうんだから驚いちゃうよ。勘十郎さんもひとり遣いのお初を作ってらしたし、手足も作られるというし、そういえば片手間に舞台下駄を作っちゃう人も居られるって大阪で聞いたよ。えっと誰だっけ、そうだ、簑一郎さんだ!なーんか普通にさくっと器用ってところも人形遣い凄いわ〜!んで、この写真集が出版された1943年(昭和18年)当時、文楽座で四谷怪談上演の折にはこの首を遣うことが慣例になっていたんですと。ということは、彦六系のド迫力お岩さんはどうなったのだろう。いずれも戦前の首なので戦火にやられた可能性は免れないのだけれど。焼失してしまったとすれば残念だなぁ。

と思っていたら、

もう一冊、文楽協会監修の「文楽の人形」でも同じふたりのお岩さんを紹介しており、

 現在、文楽協会にあるかしらは、彦六系のものを大江巳之助が模作したもので

と書いてある。

・・・・・

へ?

じゃあ、大江巳之助さんが彫ったお岩さんの首があるってこと?

ほんと?

インデアン嘘つかない?

人形遣い嘘つかない?←ついてない  

この本何年出版?何年現在?1976年だって。最近だ!


ほんでね、ほんでね、

先日買った上方文化講座の最新刊「義経千本桜」 を読んだらね、

上方文化講座 義経千本桜amazonで買うのもいいけど国立の売店にも売ってる 


なんと、なんと、

勘十郎さんがね、

「お岩さんのいい首がある」

だから

「四谷怪談やりたい」

って仰っている。

つまり

いい首というのは

大江巳之助さんが彦六系の名作と謂われるド迫力の方を摸作したやつ

って事?

だよね?


ふんぎゃ〜!


しかも勘十郎さんが「やりたい」って言ってる。四谷怪談を!


えらいこっちゃーー!!


独立行政法人日本芸術文化振興会の皆さん、
公益財団法人文楽協会の皆さん、
見巧者の皆さん、


勘十郎さんが「四谷怪談やりたい」


 って言ってますよーーー!


文楽四谷怪談見たいですよーーー!


ちょっと待って、この上方文化講座は2008年のものだから、
それ以降四谷怪談の上演がなければ、なんだけど、
もう5年も経ってるから一回くらいやっちゃったかもしれないよ。
文化デジタルライブラリーの公演記録を見る。
う、
やってない。
じゃ、やって。
やろう。
やろうよー!
やろうぜ四谷怪談んんん〜〜〜←半泣き

待って待って、先を読むと、ほえ〜
祟りがあるのを恐れて怪談ものはあまりやりたがらないんだって。
勘十郎さんが塁の左をやったときに怪我をした話が載っている。

む〜〜〜ん。

お岩さんも塁ちゃんも忘れ去られるより舞台に上がった方が喜ぶとは思うけど、

誰かが怪我をするのは 絶・対・に 困る。

むむむ〜〜〜〜ん。

どうしよう ←どうしもできない



そういえば、
宮尾しげをの本「文楽人形圖譜」昭和59年発行 に、 

宮尾しげをの本〈1〉文楽人形図譜 (1984年)amazonでみてみる


美人の方のお岩さんが絵入で解説がされており、




お岩と菅丞相と佐倉宗五郎をつかう人形遣いは、楽屋ではその人形を床の間に飾り、燈明と供物を上げて祀ることにしている。この三種の人形の出る芝居は、古来から祀らぬと不思議があると伝えられているからで、実際そうしない時に不慮の災難が起きた実例があったので、初めはこの怪異な噂を蒔いて、巧みに宣伝に利用したが、のちにはこれが実際になってしまった。人間の心理を逆に利用された現象というよりほかはない。

と書いてある。
人間の心理を逆に利用された って誰に?
人形にかえ?





             しぇ〜〜〜!

               


上方文化講座「義経千本桜」に、簑一郎さんが、ラジコンを使って雪を降らせる装置を作ったと書いてある。ひょ〜!それから勘十郎さんが工夫考案した狐忠信の神出鬼没の仕掛けの数々が、勘十郎さんのイラスト入りで丁寧に説明されている。え〜あれはこうなってたんだ〜と驚くことしきり。特に鼓のやつ。それに燈籠返し!大阪で川連法眼館を見た時には、ほんっっっとにたまげて度肝抜かれたもんね。見台は割れるわ最後は飛ぶわ、桜吹雪がビャーと降って綺麗だったし! 

イラストの人形遣いの顔が、ただ丸に目の線が描かれているだけなんだけど、その目が真剣で、真剣な人形遣いはイラストでもカッコイイのだ。イラストの目つきで勘十郎さんの人形を持ったときの気合っていうか、心意気が想像できるのだ。目の線だけで顔の向きがわかるってのも凄いのだ。だから人形の名人なのかな←意味不明?わかってくれ。 

文楽で四谷怪談を上演する時にはやはり於岩稲荷と陽運寺へお参りに行くのだそう。「文楽出演者が於岩稲荷田宮神社に訪れ人形と一緒に公演の成功を祈願しました」ってニュースが早く聞きたいなぁ。


義太夫年表によると明治時代には通しで、大正時代には伊右衛門内の段のみなどの見取で数回上演されているようだ。←ちゃんと見てない




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四谷怪談 新川の於岩稲荷

もうひとつの於岩稲荷田宮神社が中央区新川にある。行ってみよー!

地下鉄茅場町駅3番出口を出てそのまま永代通りを直進すると、亀島川に架かる霊岸橋を渡って中央区新川地区に入る。


亀島川。霊岸橋から八丁堀方面を見ている。


もうすぐ始まる富岡八幡宮大祭の子供神輿がここまでやって来るのね。


日清オイリオを右折、ひとつ目の信号を左折、すぐに信号を右折して左折、したんだっけかな。

すると左側に地味な神社が。これがお岩稲荷?

おじゃまします。

賽銭箱に㊎と書いてある。どうやら金刀比羅神社のようだ。

鳥居と拝殿以外に何もない。シンプルといえばシンプルだけど。ここも海に近いものね。
金刀比羅さんの向かいに於岩稲荷田宮神社専用駐車場がある。その向こう側が神社のようだ。

お岩さんめっけ!


おじゃまします。


手水舎。


拝殿前の鳥居


拝殿前のお狐さんは愛嬌のある顔立ちがカワイイな


拝殿。こんにちはお岩さん。

陰陽勾玉の社紋(田宮家家紋)が見える。

拝殿向かいにもお狐さん


こっちは凛々しい顔立ち、と思ったら顔が欠けちゃってる。


どなたでしょう?


拝殿の脇に小さな参道があって、


奥にはお百度石と稲荷社がある。


鳥居と百度石について

クリックで拡大

これが於岩稲荷田宮神社のようだ。


ちっちゃい鳥居にちゃんとちっちゃい神額が掛かっている。かわいいなぁ。


手水舎もちっちゃいの。カワイイ!


教訓:夏場の神社巡りは蚊に刺されまくって痒い。


うるさいくらいの蝉シャワーが夏真っ盛りの新川のお岩稲荷神社でした。


「東海道四谷怪談」を手掛けては天下一といわれた市川左團次から、「四谷まで毎度出掛けていくのでは遠過ぎる。是非とも新富座などの芝居小屋のそばに移転してほしい」という要望もあり、明治12年(1879)の四谷左門町の火事で社殿が焼失したのを機会に、隅田川の畔にあった田宮家の敷地内に移転した。それが現在の中央区新川にある於岩稲荷神社で、四谷の稲荷神社とまったく同体の神社だ。その新川の社殿は昭和20年(1945)の戦災で焼失したが、戦後、四谷の稲荷神社ともども復活して、現在は二つの稲荷神社がある。 (四谷於岩稲荷田宮神社で配布の印刷物より)

新川の土地は左團次がたまたま持っていた土地だという説も多々ある。


新川のお岩さま

より大きな地図で 東京徘徊録 を表示






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