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妄想オムライス
床下は骨伝導 ワ((゚゚дд゚゚ ))ワワ !!!!!



いろものせき 折口信夫

   いろものせき

うすぐらき 場すゑのよせの下座の唄。聴けば苦しゑ。その声よきに
白じろと更けぬる よせの畳のうへ。悄然(ボツサリ)ときてすわりぬ。われは
微風(チマタガゼ)砂吹き入れて、はなしかの高座のまたゝき さびしくありけり
誰一人 客はわらはぬはなしかの工(タクミ) さびしさ。われも笑はず
高座にあがすすなはち 処女ふたり 扇ひらきぬ。大きなる扇を
新内の語りのとぎれ おどろけば、座頭紫朝(シテウ)は 目をあかずおり
「富久(トミキウ)」のはなしなかばに 立ちくるは、笑ふに堪へむ心にあらず

 
折口信夫全集第24巻 海やまのあひだ 大正六年-百十二首- p64




wikipedia に、1917年(大正六年:折口31歳)1月私立郁文館中学(文京区)の教員となる、2月には「アララギ」同人となり選歌欄を担当する、とある。東京でのことを歌ったもののようだ。


★色物席とはweblio隠語大辞典

1.今日では、もう釈場、義太夫席、落語席といったような単独の席はなくなってしまって、どこの小屋でも皆、色物席になった。ここで色物席と厳密にいうならば、講釈場、義太夫席に対して落語のかかっている席のこと。〔芸能(寄席・落語)〕

2.〔用語〕講釈場、義太夫席等に対して落語の席を云つたもの。


とあり、講釈・義太夫を中心に対比された言葉なので、もとは関西で使われた言葉であると考えられるし、江戸・東京で義太夫節が落語と同等かそれ以上に盛んだったことも想像できる。


wikipedia寄席明治40年ごろの東京の寄席の項が興味深い。

1907年(明治40年)に東京市が編集発行した地誌『東京案内』は、明治末の東京を知るのに右に出るものはないとされている著名な出版物[13]である。明治39年末時点の東京がわかる。

きめ細かく網羅的に東京の事物が挙げられている中に、寄席に関する記述もあり[14][15]、まず東京市内・近郊で寄席の数は計141軒。 内訳は、まず講談が、おおむね各区ごとに一つはあり、24軒。
当時「色物席」という形で分けていた落語・色物の定席は、75軒。中には、有名な人形町末廣亭や神田・立花亭、上野・鈴本亭も含まれる。 浪花節席は、30軒。神田市場亭(後に入道舘→民衆座)が見られる。まんべんなくあるが、特に下谷区浅草区から本所区、深川区にかけて多く分布している。 現在は消滅した義太夫専門の定席が3軒ある。神田・小川亭、日本橋・宮松亭、浅草・東橋亭の名。 さらに、祭文[16]の席として下谷・竹町に佐竹亭の存在が確認できるのが、浪花節の歴史の点からも特筆される。 この他に、混成の席の中で、内藤新宿に末広亭(講談・色物)、品川に七大黒(色物・義太夫)の存在が確認できる。

という内訳であるが、演目は決して固定されていたわけではなく、多くが家族経営の零細企業であった寄席は[17]、かかる演目は席亭主の意向で自在に変わり、例えば色物席でも年に一度は必ずと言っていいほど義太夫がかかっていたという。

寄席の開演時間については昼席公演は少なく、夜席が多く、その終演は「午後10時から11時に至るを常とし」とある[18]。これにより一人当たりの口演時間が長い講談・浪花節でも「二軒バネ、三軒バネ」が可能であったことがわかる。また各演目別事情・料金等についても触れられている。当時の寄席用語として、付近八丁の寄席の客を奪うほど人気のある芸人という意味で「八丁荒らし」がある(むろん褒め言葉である)。

明治から大正にかけての時期には、寄席で源氏節、八木節、安来節[19][20]の全国的流行、関西においても河内音頭などが寄席の舞台に登場した。

上席下席の月2回入れ替え制だったものが、客の休日環境の変化[21]で1921年(大正10年)6月、現在に至る10日間興行に変わる。

1926年(大正15年)当時の東京市内の寄席については、日本芸術文化振興会により、ネット上に地図が編集・公開されている。

寄席名の後に「亭」や「席」をつけて呼ぶことが一般的であった。



★『東京案内』読んでみたい。


座頭の紫朝wikipediaの「俗に初代柳屋紫朝」と呼ばれている人のようだ。

俗に初代(富士松から入れると3代目) 柳家紫朝(1873年9月9日 - 1918年5月12日) - 越中富山の出身で若くして失明し1888年頃に久留米に隠居生活していた初代富士松紫朝の元で修行し紫玉と名乗る。左校と改名し地方廻りしている時に4代目柳亭左楽に見出され1896年に柳派に加盟。翌年初席から「三代目柳家柴朝」として出勤。「紫」に考慮して「柴」としたというが、大正に入り「紫朝」となる。本名:尾上 亀次郎または亀吉。墓所は谷中一乗寺。戒名は「温情院紫朝日唯信士」。

★没年1918年は大正7年なので、紫朝は死の間際まで高座に立ち、折口はその晩年を見聞きしたということになる。


★富久は落語の「富久wikipedia」。 youtube桂文楽「富久」


★『海やまのあひだ』は大正十四年五月三十日、改造社版の現代代表短歌叢書第五篇、自選歌集として出版(解題 p585)。


★大正七年初出の『方言(青空文庫)』で折口は

 此頃の色物席は恐ろしく不純で、お上品になつた為に、自在な東京下流の対話は、講釈場でなくては聞けぬ様になつた。わたしは、四五日方々の席に出かけて、下の用例を筆記して来た。

と書いている。東京へ出てすぐさま東京下町の言葉つまり「江戸ことば・江戸弁」のリサーチに取りかかっていたことがわかる。「恐ろしく不純で、お上品になった」とは、不純な話を上品な言葉のオブラートで包んでいるってことかな?


 2015年2月28日読む








 

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東京案内
国会近代デジタル タイトルで検索 26番目のが発行年が一致するのでそれと思われます.コマ 177が劇場 それに続いて 能楽堂 寄席などの一覧表がでてきます.
KI / 2015/12/16 8:57 PM

ぎゃーKIさんいい人すぎる!!
今見てますありがとうございます!


オムライス / 2015/12/16 9:30 PM










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